文藝春秋十二月号~名著講義「学問のすすめ」~を読んで

唐突ですが、私は月に1回の文藝春秋を読むのをとても楽しみにしています。
あの取っつきにくいサイズと素っ気のない表紙に敬遠しがちでしたが、祖父の家で何気なく手にした10年くらい前よりよく読むようになりました。
その中の記事で我が意を得たりと思える文章があったのでご紹介します。
名著講義と言って「国家の品格」で名を馳せた藤原雅彦教授が、お茶の水女子大にてこれはという本を学生に読ませ、その感想を言い合う企画です。
今回は福澤諭吉著の「学問のすすめ」でした。
最初はご多分に漏れず、学問のすすめの余りにも有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の印象から平等の話かと思ったら、「人の上か下かは自己責任」と言っていることに学生が驚くところから始まります。
この中で福澤は実学を重視していて、それに対して学生たちは人文学系もより大事ではないかと問題提起します。
それに対して藤原教授は昔は自分もそう思っていて、自分のやっている数学は意味ないと言われているようで、この本を批判的に読んでいたと言った後、でもこの本だけを見るのではなく、時代背景、国際環境、教育事情を見通した上で読むと違った面が見えてくると説きます。
すなわち福澤は祖国日本がこのままでは列強の植民地となってしまうと考え、そのために経済や工学を起こして商工業を発展させ文明を発展させなければいけない、武器や軍備を充実しなければいけないと考え、実学を学ぶことの必要性を少々荒っぽく言ったのではないかと説いたわけです。つまり「この本は、日本をよくしなければならない、欧米列強に侮られてはいけないという強い祖国愛に裏打ち」されているとしたのです。
更に話が進むと、学生から「福澤は外国かぶれではないか?」と問題提起がなされます。
そこで藤原教授は、福澤が元々は儒家の家に生まれ漢詩・漢文・儒教などの漢籍の教養をたっぷり身につけていたこと、他の著作で徳義の大切さを語っていることを教えます。そして「文明論之概略」での「徳は智に依り、智は徳に依る」等の言葉を出し、「学問や徳義を国民が身に付け、気力を充実させ富国強兵に邁進すれば欧米など恐くない」と言っているんだと言います。
そして更に学生と討論を深め「一身独立して一国独立する」という言葉に到達し、ある学生が「最近のマスコミを見ると、投票率が低いのも、政治家の汚職も、みんな国や官僚のせい。国民を批判する様なことはないですね。視聴率を取るためかもしれませんが、逆にとても不誠実だと思います。」とし、「国民にも責任を求めることが民主主義だと思います。」と発言します。
これには藤原教授も同意し、だから残念ながら「学問のすすめ」は今も新しく感じてしまうとしています。130年の幻滅が加わっただけだと。
そして最後に以下の言葉で締めています。
「福澤は、武士の権威としての刀を「馬鹿メートル」と呼び幕末に売ってしまい、武士の知としての儒学を切り捨てた人物である。にもかかわらず、武士とは義に生き義に死す者、と定義するなら福澤は真正の武士である。福澤における義は国家の独立不羈である。文明も民主主義もそのためである。福澤がこの目的のためなら死をも辞さないであろうことは本書にみなぎる気迫から明らかと思う。福澤は武士の姿形を真っ先にかなぐり捨てながら、武士の核心たる義勇仁、もう少し正確に言うと、それに実証的学問を意味する理を加えた義勇仁理、を掲げ自ら貫いた「新武士」だったのである。」
全く同感です。今回は余りにも「我が意を得たり」だったので、敢えて余り書きません。
学生時代の頃は折角の塾祖の著作には余り興味が湧かなかったのですが、普通部の時にいろいろとそんな福澤精神を教えてもらっていたので、とある掲示板でも使っている「独立自尊」という言葉がとても気に入っていたのです。
今回の150年式典で天皇陛下も「独立自尊に言及されたとのこと。今なお新鮮な言葉です。
自分の母校の始祖がこれほど尊敬できる人物であることを、本当に心から嬉しく思えます。

「文藝春秋十二月号~名著講義「学問のすすめ」~を読んで」に4件のコメントがあります

  1. 私は九州の田舎の県立高校出身です。
    私を罵倒する2チャンネルで
    「あいつは普通部、塾高出身ではない」と見破られたことが
    あります。
    掲示板に投稿しなくなった理由です。
    慶応ファミリーが独立自尊でなく唯我独尊になることを
    強く危惧しています。
    いよいよ慶応高校モードに入ってきましたので、
    掲示板への投稿は今年は終わります。
    「高校のことまで田舎出身者は口だしするな」
    という言葉が心の傷になっています。
    普通部、塾高出身で尊敬のできる独立さんなので
    正直に告白しておきます。
    私は慶応出身なので福沢が好きなのではありません。
    「文明論之概略」をもし丸山真男が卒業間際、
    教えてくれなかったら、
    田舎から出て来た場違いの塾生は慶応嫌いで卒業したでしょう。

  2. 今月、私塾ではフランクルの「夜と霧」をとりあげます。
    私がこの本を手にしたのは、同名のナチス断罪のドキュメンタリー映画が公開されたからでした。
    しかし、そこにあったのは、「どちらの陣営に属しているかで人を断罪してはならない」というメッセージでした。
    アウシュビッツの極限状況に置かれながら、フランクルは、「ナチスの親衛隊のなかにも心優しい人がいたし、囚人のなかにも仲間を裏切る人がいた」という事実を私の前に示してくれたのです。
    私がこの本を読んだころは社会主義が理想と考える知識人が多かった。
    彼らは日本軍国主義とナチスを悪の権化とし、ソルジェニーツインが「収容所群島」で暴露するソ連の実態を知らず、修正社会主義でさえ日和見主義と批判していたのでした。
    私が会社に勤めていたとき、上司が「君には愛社精神がない」と言いました。
    私が部門企画にあたって会社の方針を批判したからです。
    私は定年まで会社にいましたが、その上司は定年を待たず、割増退職金を得て、条件のよい外資に転職してしまいました。
    私は「日吉人」「OB」のコメントが出たとき、勇気をもって、自分の考えを述べるべきでした。その反省から9科目評価で入学選抜する慶応高校の推薦制度を評価する投稿を遅まきながらしました。
    「慶応を愛さない人は投稿しないでくれ」という反論は悲し過ぎました。
    もしあれが「荒し」なら、団長は削除していたはずです。

  3. いつも文武両道様のコメントを拝見しております。
    大先輩のおっしゃっていた課題について、この場を借りてコメントさせてください。
    私も出身校で何かを論じる事はナンセンスだと思います。
    慶應大学は多士多彩な人材を得るために、多様な方法で募集しているのだと思います。思いつくだけでも一般入試、AO入試、指定校推薦がありますし、付属中高も男子校、共学校、NY学院、藤沢や志木高と様々で、今後も一貫教育キャンパスが増えるそうです。
    小生は「慶應」の良さの一つに、野球など「現役・OBを問わず、世代を超えて業界を超えて一体になれるところ」があるのではないか、と気づいたところです。色々な方法で大勢が集まったマンモス校であるにもかかわらずです。
    そして野球談義から始まって、交流・話題が各方面に広がって行く可能性を秘めていると思います。
    小生は「出身高校にこだわりなく、そして慶應の校風に呼応した方々が集まって野球の話をしているシチュエーション」が好きです。某掲示板の団長さんも所謂塾高出身でいらっしゃらなくてもとても熱い心が感じられます。
    他者を非難する者は何らかコンプレックスを持つ者だと思います。
    自分への非難を避ける行為の裏返しなのでしょう。
    先輩はきっとその様な輩のお相手をなさることは無いと思いますが
    今回のコメントに寂しいものを感じ、若輩の青臭い所見で失礼とは思いましたが書き込ませていただきました。恐縮です。

  4. 文武両道さん
    げんきさん
    コメントありがとうございます。
    お二人のコメントの内容は深くて、なかなかコメントに書けなかったので「正義とは」といった記事で、自分が感じたことを書かせて頂きました。お返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。

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