線香花火のような、はかなく切ない思い出とは?

コネタマ参加中: 線香花火のような、はかなく切ない思い出募集


時間が少なくなった中、ここはコネタマしかありません!
ということで、今回のお題は「線香花火のような、はかなく切ない思い出募集」とのこと。
自分は、中林君が塾高3年生の時の夏の神奈川県大会ですね。
前日、ヤマ場と思われた東海大相模戦を観戦して、見事サヨナラ勝ち!
意気上がる塾高野球部を見ながら、さすがに次の日も会社を抜け出して見に行くのはまずいなあと思い、おとなしく会社にいることに。
でもやはりいても立ってもいられなくなり、車のガソリンを入れに行くついでに、テレビを見ることに。
場面はちょうど6回、中林君の球が明らかに走っていない中、なんとか抑えました。
そしてガソリンスタンドに着いたので、ちょうど車も汚れていたので、ついでに洗車をして、テレビ観戦。
そして力尽きて、打ち崩されてしまう中林君の姿を呆然と見続けていました。
その姿を思い出すと、なんだかはかなく切ない気分になるのです。

「線香花火のような、はかなく切ない思い出とは?」に25件のコメントがあります

  1. 鈴木哲投手が
    立教戦でサヨナラホームランを打たれたとき
    カクテル光線に打球が吸い込まれて・・・・
    山口遊撃手が
    明治戦で1塁暴投でサヨナラ負け・・・
    なぜだか勝った思い出、シーンは記憶から消され、
    サヨナラ負けのシーンが・・・・

  2. 関東選抜に早大学院の選手がいるのにビックリ。
    早実はゼロ。
    東伏見から乗ってくる早大学院の選手たちに
    声をかけたことがあります。
    物理の教科書をもって文武両道でした。
    三宮君、全国ビッグ3の大物だったようで
    中学時代に雑誌インタビューでは、
    記者から「全国一の秀才の三宮君」と形容詞が
    ついていました。
    慶應義塾高校に野球だけで入れるなんて
    がさネタ、せめて慶應義塾出身者だけは乗せられない
    ように・・・
    大森君は指定校推薦のある高松商に入ったからと
    いって、推薦が簡単であるはずがなく、
    3年間、必死に勉強したと言っていました。
    因みに指定校推薦制度はあっても
    慶應への進学は大森君だけだそうです。

  3. 平成10年11月1日、府中競馬場。果たして何馬身離して勝つのか…あの大観衆の殆どがそれを期待してはず。。。

  4. そういえば、秋のリーグ戦の日程も発表になりましたね。
    昨年は塾高の試合と被る被らないと嬉しい話で盛り上がったような。ぜひ秋は空(スタンド)に消えて~た打ち上げ花火~ を沢山みたいですね♪
    ※注 歌っていたのはジッタリンジンが元祖 ホワイトベリーがカバー で ZONEではない(汗)
    ※今年も被る被らないとなってくれたら尚最高!(今年は11月1日から千葉県開催)

  5. 訂正・10月31日“(土)”からです。※千葉県高野連のHPをみると、31日が…(汗)

  6. 黄色さん
    秋のリーグ戦決定お知らせありがとうございました。
    9、10月の日程、各所連絡にこの時期
    早ければ早いほどいいので…
    ところで私塾に通っていた小学校からの
    野球好き、彼も宇宙飛行士になりました。
    野球と宇宙、面白い関係ですね。
    あごらさん
    いわゆる日常会話のバイリンガルは、
    早ければ早いほどよいと言われていますが、
    自分の考えを述べる母語は
    ひとつのほうがよい、
    ちうのが娘の見解です。
    娘は帰国子女から税理士のオジサンまで
    幅広く教えていますが、
    オジサンはどんなに頑張ってもヒアリング能力
    はバイリンガルにならない。
    幼少のバイリンガルは自分の概念形成に
    マイナスな面がある。
    言語学と教育学の永遠の課題だそうです。
    いずれにせよ、野球からこんな話まで
    このブログは魅力です。

  7. > 文武両道さん
    面倒な問いにお付き合いくださって、どうもありがとうございました。
    お嬢さまのご意見は、思考する時に使われる言語は母語の方であり(この部分は私の脳内補足です)、バイリンガルの場合であってもどちらかひとつの言語を母語として固定する方がよい、と理解してよろしいでしょうか。
    > 幼少のバイリンガルは自分の概念形成に
    マイナスな面がある。
    なるほど。
    そううかがってしまうと、私の価値観では、バイリンガルになれなくても結構!ということになりそうです。
    (間違ってもなれっこありませんが、それはさておき…)
    ヒヤリング能力ということでいえば、昔から、英語はヒヤリングがいちばん苦手でした。
    でも、あるとき、ハタと気がついたのですが、私は日本語でも聞き取りが悪くて、空耳アワーになるはメモはちっとも取れないは話がかみ合わなくなるは、もう散々!という状態だったのです。
    耳が悪いのか頭が悪いのかその両方か…いずれにせよ、母語でもできないのに外国語でできるわけがない、と妙に納得がいったことでした。
    どうも長々と失礼しました。

  8. 私も娘の言うことをお伝えしているだけですが、
    その解釈でよろしいか、と思います。
    ヒアリングが苦手なのは、中年男の共通項。
    私の家では外国映画は、
    字幕なし、吹き替えなしなので、
    妻と娘が笑うときに
    わからず、笑えないことがたびたび・・・
    「耳だけは生まれつきだから」
    と妙な慰め方をされています。

  9. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    はかなく切ない思い出というのは、もののあはれと言いましょうか、何かが消えゆく様に感じることが多いですよね。「大和魂」というとなんだか軍国主義の賜物のように思われてしまいますが、本来の「やまとこころ」とは「もののあはれ」にあったと思います。
    それにしても早稲田学院の選手が関東選抜にいるとはビックリですね。来年以降の早稲田大野球部でその姿を見るかも知れませんね。

  10. 黄色と黒は勇気のしるし♪さん
    コメントありがとうございます。
    さて、最初は何の話しかよくわからなかったので、勝った負けたのお話かなと思いました。そして調べたら以下のページが見つかりました。
    http://nekoneko-mvd.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_72b2.html
    なんと、セナの生まれ変わりの馬のお話だったとは!
    それにしても競走馬って、切ないですね。走れなくなった時が、人生の終わりになってしまうとは・・・。

  11. 黄色と黒は勇気のしるし♪さん
    コメントありがとうございます。
    ・・・おや?
    そうですよね、ホワイトベリーですよね。なぜZONEと思ったのでしょうか・・・?
    粗忽者故、相済みませぬ。
    今度の塾高のチームは谷田君を筆頭に、花火を見せてくれそうな選手がいますね。関東大会の場で見ることが出来たらいいですね!そんな日が来るように、今きっと日吉台グランドで彼らは汗をかいているんでしょうね。

  12. あごらさん
    文武両道さん
    素晴らしい会話のやりとりをして下さって本当にありがとうございます!
    自分もあごらさんと同じように「バイリンガルにならなくてもいいんだ」と思ってしまいそうになりましたが、それは小さい頃のお話のようで、今の自分の年では全く関係がないことに気付きました[E:coldsweats01]
    原書を読むのが一番容易だと言うことは、すごく納得しました。やはり訳するという作業が入る以上、どうしてもわかりにくい話の展開となってしまうのでしょう。これは外国語のお話だけではなく、人の意見を使って自分の意見の如く言う人の言説にも繋がりますね。
    いずれにせよ、自分の言葉を使って自分の思っていることをしっかりと主張することが、一番大事なんだろうと思います。

  13. ごく最近になって、
    外国人研修生の担当となって、英会話の特訓を
    している私塾塾生がいます。
    どうしても正しい英語、文法が気になって
    言いたいことを伝えられない、と悩んでいたら、
    同じく、研修生受け入れのベテランが、
    「研修では、
    要は伝えたい中身があれば、
    文法は気にしなくていい。
    ただし、相手とのネゴ、契約については、
    シビアな契約マインドが必要。
    でも、これは日本語でも同じだから」
    とアドバイス。
    ただし、2人の英語のレベルの差から言うと、
    安心しろと言っても無理な話。
    バイリンガルでない限り、会話では
    話すときは
    同時通訳の日本語から英語へ。
    聞くときは英語のままヒアリング。
    読むとき英語のまま理解し翻訳しないのと
    同じ。
    「エートスという言葉は日本語に置きかえられない」
    マックス・ヴェーバーの読み方で大塚教授。

  14. 流石! あの日の事は一生忘れられません。我輩の人生において、昭和六十年十一月二日より重要な1日ですので、今年の慶早戦第2戦は観戦できません[E:bearing](命日ですので)ただ、神宮には提灯を持ちに駆け付ける予定です[E:run]

  15. 九回裏ツーアウト満塁。
    慶應3点リード。
    仁志の打棒一閃。
    勝利への願い、レフトスタンドに飛び込んだ打球によりはかなく散り切なく終戦を迎えました。

  16. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    なるほど!よく理解出来る気がします。
    話す時は日本語→英語で、聞く時は英語のままで理解というのは、とても現実的ですよね。そう言えば日本語をうまく話す外人さんが例えば、「う~ん、そのethosが」と不意に英単語を使う事ってありますよね。多分それも英語→日本語で話しているんでしょうね。

  17. 敢えてタブーを。今日開幕の選手権の日の彼女の逮捕。過去にセンバツの入場行進曲を唄った彼女。絶対に更正してほしいです。高校球児にとって、甲子園は夢冒険だから。

  18. > 聞くときは英語のままヒアリング。
    読むとき英語のまま理解し翻訳しないのと
    同じ。
    > 話す時は日本語→英語で、聞く時は英語のままで理解というのは、とても現実的ですよね。
    うーむ…
    私の場合、例えば「ethos」に対応する日本語がない場合にいちいち日本語で置き換えずに「エートス」とカッコにくくってしまってそのままそれ以外の部分を日本語で考えることならできるのですが、それでも「エートス」の中身がどういうものであるのか日本語で理解できていることが条件となります。
    もし「エートス」の中身を日本語で理解していなければ(翻訳するという意味ではなく)、結局は全体として話を理解することはかなり難しいと思います、少なくとも私の場合は。
    (勿論、「エートス」について説明されているというシチュエーションである場合は、話は別です。その場合は、説明を通して「エートス」の内容を日本語で理解することになるでしょう。)
    もし、「母語で考えている」としたら、こういう状態になるのではないかというのが、私の理解です。
    逆に、「エートス」の中身も日本語を通さずに理解しており、それ以外の部分も英語のままで理解するとしたら、それって「英語で考えている」状態なのでは?と思うのですが、その理解は間違っているでしょうか。
    で、話が最初に戻ってしまうのですが、
    > ところで、母語で理解できない内容を、外国語で理解することは可能なんでしょうか。
    外国語が非常に堪能な人は、外国語で話すときは外国語で考えていると聞いたことがあるのですが、母語で理解できないような内容でも、外国語で考えることってできるんでしょうか。
    > ここのところを、母語を介さずに、原語のままで、つまり母語に置き換えるということを一切せずに、理解するということができるものなのか、バイリンガルや外国語に堪能な人はそのようにしているのか、ということを知りたいな、と思ったのです。
    そのときには、当然、原語の方で思考しているということなんですよね。
    そのとき、母語での思考は止まっているのでしょうか。それとも、潜在的に頭の底でその原語での思考によりそっているのでしょうか?
    というのが、私の疑問だったわけです。
    ちょっとひねくれすぎているかも知れませんが、自分ではその状態にはなれないので、お聞きするのに絶好の機会と思ったものですから…
    で、仮に上の状態が「英語で考えている」状態なのだとすると、
    > お嬢さまのご意見は、思考する時に使われる言語は母語の方であり(この部分は私の脳内補足です)、バイリンガルの場合であってもどちらかひとつの言語を母語として固定する方がよい、と理解してよろしいでしょうか。
    という私の理解は、どこかで間違っていたのではないか、という疑いが頭をもたげてきました。
    書いているうちに、何だか自分ができそこないのソクラテスになったような気分になってきました。
    少なくともソクラテスの場合は、議論の行く末を自分でわかってコントロールしていたのだと思うのですが、私は単にかき回しているだけみたいで…
    こんな変なお話につき合わせてしまって、本当に恐縮です。

  19. マックス・ヴェーバーの概念、カリスマ、エートス、ベルーフは
    彼の著作のなかで原語で読むほうが、
    近い日本語を探すより理解しやすい。
    アゴラはデモクラシーの原点であると思いますが、
    近い日本語はないと思います。
    鈴木大拙は巧みな英語で日本のZENを世界に紹介しましたが
    もちろん近い英語が皆無だからです。

  20. 黄色と黒は勇気のしるし♪さん
    コメントありがとうございます。
    阪神優勝よりもそちらを取るとは、よっぽど衝撃的な事件だったのですね。コントラストが強ければ強いほど、その出来事は印象深くなるものです。寸前まではまさに競走馬としての輝きを放っていたわけですから、その後の落胆もまた大きかったのでしょう。そしてここ最近騒がれているあの事件も・・・。

  21. げんきさん
    コメントありがとうございます。
    93年春の第二戦の時ですね。実はその頃は今ほど熱が入っていなかったこともあり、よく覚えていないんです。それより92年秋の勝利の方が印象的で・・・。
    でも、そう言った時のボールって不思議とスローモーションのように見えるんですよね。ああボールが上がった!から。
    確かに早稲田時代の仁志選手って勝負強い印象が強かったですね。

  22. > 近い日本語
    勿論、単語が一対一で対応するわけではありませんし、当然日本語にはない概念だってあります。
    ですから、「近い日本語」というわけではなくて…
    何と表現したらいいのか、わからなくなってきてしまいましたが…
    どのような概念にせよ、私は日本語を通じてしか把握できないので、意味を取るために少なくとも一度は、何らかの説明を頭の中に(日本語で)構築したわけです。その、日本語によって理解された何かを、「エートス」(カギ括弧エートスと読んでください)と呼んでいるわけです。
    相手の知らない概念は、少なくともそれがどういう内容であるか、言葉を尽くして説明しなければ、そもそも内容自体を相手に把握させることは不可能ですよね。
    ZENならZENで、内容についての英語での説明はなされているはずです。(一冊の本丸ごとを使っての説明になるのかも知れませんが。)
    この場合、ZENとは英語を通じて読者に理解された「禅」ということにはならないでしょうか。
    ここまで書いてきて、少し考えたのは、
    文武両道さんは、英語に非常に堪能でいらっしゃるので、説明文の部分の英語も、日本語を一切通すことなく英語のままで理解なさることができる。
    でも、私は、「エートス」だけでなく、その説明をしている部分の英語も、日本語を通してしか理解することができない。
    そこで、話が食い違ってしまうのかも知れませんね。
    そして、正にそのことが、私が知りたかったことなのかも知れません。
    つまり、母語を通さずに理解することは可能であり、実際にバイリンガルや外国語に堪能な人は、そうしている、と。
    そうだとすると、もうひとつの超された問題が頭にのぼってくるのですが、それは、また改めて、ということにさせていただきましょう。
    勝手に騒ぎ立てて勝手に納得したようでみっともないのですが、妙にストンと腑に落ちたような気がします。
    ちなみに、このように、侃々諤々やっているうちに不意にそれを上から見下ろすような感覚が得られて、そこで何かが見えてきたとき、そのような状態が、私の中での「止揚(aufheben)」という言葉のイメージです。
    でも、私はそのイメージを日本語を通じてしか頭にのぼせることができないのです。
    このように説明すれば、私の言いたかったことが、ご理解いただけるでしょうか。
    本当に長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

  23. マックス・ヴェーバーを訳した大塚は、
    どうしても適切な日本語が思い浮かばず、
    「エートス」のままにした。
    鈴木大拙は、ZENだけは日本語のままとしたが、
    1冊の本を通じて、英語で外国人にわかりやすく
    説明した。
    今ではエートスは日本語として認知され
    ZENは英語として認知されています。

  24. 黄色と黒は勇気のしるし♪さん
    コメントありがとうございます。
    この事件は、なんだか不自然に感じる点がたくさんありましたね。少なくとも彼女が一人で全てやっていた事件ではないということは、間違いないと思います。
    この一連の事件の報道とか街の反応とか聞いているうちに、なんだか心の闇とか人生の中で背負ってしまっている宿命みたいなものが見えてくるような気がして、なぜだか自分が何とも言えないやりきれなさを感じてしまっているんですよね、不思議と。
    でも、この事件に対して「絶対に更正してほしいです。高校球児にとって、甲子園は夢冒険だから。」とコメントされるところに、優しさを感じます。自分も見習わねば。

  25. あごらさん
    文武両道さん
    引き続き母語と言語についていろいろとお話しいただき、ありがとうございます。
    多分言葉というのは、概念・感情→言語化という流れをたどっているのだと思います。よく言う「言葉ではうまく表現出来ないけど」というやつです。例えば「お腹がどんな風に痛いんですか?シクシク?ズキズキ?」とお医者さんに聞かれ、「そんなの、どう言っていいかわからないなあ」と思うような・
    それとは別に最初に言葉から始まって、概念・感情につながることもあると思います。例えば本で読んで得た知識なんて、こちらの方ですよね。aufhebenも「止揚」という名訳が付けられたからこそ得られる概念でもありますよね。でもaufhebenは普通に「持ち上げる」という意味でも使われますから、昔の学生がドイツに留学した時、「そこの物を棚に持ち上げておいてくれ」という会話を聞いて、「うちの下宿のおばさんは家事の時でも哲学を語っている。さすがドイツだ。」と話したという笑い話も聞いたことがあります。言語から入った概念ゆえのお話ですよね。
    ただ自分の得た概念・感情という物をストックするためには、やはり言語化しないと整理がつかないことが殆どだと思います。だから自分の得た概念・感情という物を日本語に置き換えようとするのでしょう。自分も外国語はさっぱりですから、大体のことはこうやって覚えています。でも外国語の概念もわかる人にとっては、言語は概念や感情を表現するただの道具の一つですから、使いやすい道具をその用途に応じて使うが如く、あるときは英語、あるときは日本語になるのだと思います。
    なんだか柄にもなく哲学的なお話に割り込んでしまって、すみませんでした[E:coldsweats01]

管理人 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください