広島・長崎 五輪誘致のニュースで思うこと

先週の土曜日から広島市・長崎市が共同で核廃絶を目指す意味で、2020年の五輪を誘致するというニュースが駆け巡りました。

<20年五輪>広島市長らがJOC訪問、意欲伝える
10月13日22時40分配信 毎日新聞
取材に答える広島市の秋葉忠利市長=東京都渋谷区の岸記念体育館で2009年10月13日午後5時20分ごろ、飯山太郎撮影
 広島市と長崎市が共同で20年夏季五輪の招致を検討すると表明したことに関し、広島市の秋葉忠利市長と長崎市の職員が13日、東京都渋谷区の日本オリンピック委員会(JOC)を訪問し、五輪開催の意欲を伝えた。
 JOCの竹田恒和会長は「東京の意向も聞いていない。今は白紙の状態」と20年五輪招致に慎重な態度を示し、国際オリンピック委員会(IOC)が複数都市の共催を認めない場合は「(共催断念を)指導せざるを得ない」と語った。
 JOCによると、秋葉市長は「被爆都市での平和の祭典」という開催意義を示し、「(核なき世界を提言し、ノーベル平和賞を受賞した)オバマ米大統領がきっかけになった」と説明した。
 終了後、会見した秋葉市長はIOCが1都市開催を原則として共催に難色を示したことに対し、「可能性がまったくないわけではない」と予定通り検討する考えを示した。また、藤田雄山・広島県知事が「事前に相談がなかった」と不快感を示したことについては「基本的には都市レベルの話だと思うが、県にも協力の輪を広げたい」と述べた。
 JOCは竹田会長が不在で市原則之専務理事らが対応。東京が落選した16年五輪招致を年内に総括した後、20年五輪を検討する。【高橋秀明】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091013-00000127-mai-spo

自分はこのニュースを聞いて、良くも悪くも戦後の日本の一つの到達点だなあと思いました。
いい意味で言えば、戦争放棄の憲法を持ち、唯一の被爆国として核廃絶を訴えてきた国が、いよいよそれを全世界にアピールしていこうとしていること。
でも本当に思うのはこちらの方です。
正直、ちょっと感覚がずれているのでは?ということ。
1)東京が環境問題を取り上げた時、IOC委員からは「ここは国連ではない」という意見が出ていました。環境問題は負担の分担を除けば全世界的に賛同が得られる問題です。その問題ですら、そういった扱い。ましてや「核兵器廃絶」となれば、より政治的な要素が強くなります。五輪の一つの精神は、「政治でいかに対立していようともスポーツを通じて人はわかり合える」といったもの。これだけ多くの国が核兵器を持ち、そして開発しようとしている国も多い中で、わざわざオリンピックの中で政治的対立を起こしうる内容を取り上げる積極的な要素はないように思えます。
2)広島・長崎に原爆を落とした国はまさに「アメリカ合衆国」。いくら呼んでもアメリカの大統領が来ないのは、そこで甚大なる被害と悲惨な人間への攻撃の爪痕に対して、アメリカ合衆国の大統領の立場で語るべき言葉が無いからです。もしここで核兵器に対して批判的なことを述べれば、それはアメリカ合衆国が日本に対して原爆投下をしたという決断を否定することにつながり、それは第二次世界大戦以降定着している正義の解放者=連合国、悪のならず者=枢軸国といったロジックを否定することにもつながるからです。
オバマ大統領は核兵器のない世の中を目指そう!とは言っていますが、広島・長崎への原爆投下は過ちだったとは言っていません。
つまり、このことはオバマ大統領の趣旨に沿っているのではなく、逆にアメリカ合衆国に対して批判の声を上げよう!と言っているようなものだと思うのです。
外交とは自分の思うところだけを述べていればいいものでは無いと思います。各国の利害を巧みに調整し、自然とそこに落ちるように交渉していくことだと思います。この被爆都市による五輪誘致というのは、そういった冷徹な外交感覚が全く欠けた、自分たちからの目線でしか考えられない日本そのものを表しているように思えるのです。理念が素晴らしい、とてもいい考えだ!と結構多くのマスコミがそう伝えていましたから。そしてこれは今に始まったことではないとも思えます。
これとは全く違った意味合いですが、同じような流れ、つまり夜郎自大をたどった戦前のお話です。
昭和8年、日本はリットン調査団が提出した報告書をもとに国際連盟で出された結論に対して反発し、脱退することとなります。教科書では松岡洋右代表が憤然議場を出て脱退したみたいな形で描かれていますが、実際は国民、特に新聞が脱退を煽りに煽った結果でした。津田塾大学の掛川トミ子氏の言葉を借りれば、「その職分であるべき言論を放棄した日本の新聞は、脱退劇の主役を演じた松岡洋右を国民的英雄と讃え、1933年3月27日に連盟脱退を宣告した詔勅が渙発されるや『朝日』『日日(毎日新聞の前身)』両紙ともに、連盟脱退を肯定し、脱退の是非については問題にしようとはしなかった」のです。
たとえば『日日』の社説は、孤立しながら連盟に留まることは、と前提し、「これ実にこれ等諸国に向かって憐を乞う怯懦の態度であって、徒にかれ等の軽侮の念を深めるのみである。・・・我が国はこれまでのように罪悪国扱いをされるのである。連盟内と連盟外の孤立に、事実上何の相違もない」と、いかにも自分たちからの目線での論法を展開しています。
この状況下で、ひとつ異彩を放っていた新聞がありました。福澤諭吉先生が創立した時事新報です。当然昭和初期ですから、既に福澤先生はご存命ではありませんが、社説子は同じ日の社説でこう述べています。
「是非の両輪が、その終局に於て精神的一致を得るの途は、両論を尽くすことに依って初めて得られるのである。言わんと欲するところを封ぜられ、説かんと欲するところを制せられ不満不平のうちに一方の議論に引き摺られるようでは、その国論は真の国論ではない。静かに顧みるに、日本人は如上の言論的訓練に欠ける憾みはないか。自己の説を満点、他を零点と誤認して罵倒に趨り易い傾向はないか。己の耳に栓して自説のみを叫ぶ癇癖はないか。かくて此大国策が、論もなく理も尽くされずに移り行かんには、悔を後日に胎さんこと必定であろう」
(半藤一利著 昭和・戦争・失敗の本質より)
まさに今にも通じることのように思えるのです。五輪招致と言っていることは180度違いますが、結局同じような日本の性癖を示しているように感じるのです。
理想を持つことは素晴らしいことです。なればこそ、その理想を実現するために、冷徹なリアリズムを持って、物事に対処していくべきだと思うのです。そういった意味で、自分は今回の五輪誘致の話しを捉えていました。

「広島・長崎 五輪誘致のニュースで思うこと」に2件のコメントがあります

  1. 自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない。その習慣がなければ、自分自身のビジョンが絶対的なものと信じ、ついにあらゆる反論は裏切りの性格を帯びていると思い込んでしまう。人々はいわゆる「問題」には裏表があるということは進んで認めるが、自分たちがいわゆる「事実」とみなしているものについては両面があることを信じていないからである。「事実」の両面性が信じられるようになるのは、長い間、批判的な目を養う教育を受けて、社会について自分たちがもっているデータがいかに間接的で主観的なものであるかを充分に悟ってからのことだ。
    大衆が耳にする報道は、事実そのままの客観性を備えたものではなく、ステレオタイプ化された報道である。
    これまで自分が学んだことがなかったものにも目を注ぐことができるか。
    真実の働きは、そこに隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人々がそれを拠り所にして行動できるような現実の姿を描き出すことである。
    ジャーナリストの唯一のコミットメントは、真実を探究し、見たものを報道し、説明することにある」
    (1965年 リップマン76歳、ロンドン国際新聞協会での講演)

  2. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    さて、「事実の両面性」ということを頭では理解出来ていても、いざ実際に自分の立場に返ってくるとどれほどそれを理解出来るかは、自信がありません。
    やはり思い入れが強くなればなるほど、どうしても主観的要素で物事を見てしまうような気もします。
    仏教では執着を捨てることを教えますが、まさに物事への執着を捨てることが出来ないと、「事実の両面性」を真に理解出来ないような気がします。
    そういう見方ができるようになるためにも、いろいろな物事を見聞きし、考えていくしかないのでしょうね。

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