「顧客」としての市民でよいのか -三田評論12月号より


最近記事もコメントもご無沙汰してしまっており、申し訳ございません。
さて、今月号の三田評論を読んでいたら、なるほどと思わされる文章があったのでご紹介させて頂きます。
三田評論 2010年12月号
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◆講演録 〈福澤諭吉先生生誕175年記念講演会〉 『私立』ということ 鷲田清一(大阪大学総長)

と題して掲載されていた中から抜粋させていただきます。

・「普天間基地の移設」をめぐりまして、それが一つの理由となって、鳩山総理が退陣されたわけですが、そのときのメディアによる「鳩山総理の失態に対する批判」というのは、凄まじいものがありました。
・私が非常に気になりましたのは、それらの厳しい批判はいずれも対案を示していたわけではないということです。たとえば、「防衛」というのはどういう考えでなされるべきなのか、日米安保はいまもって日本の防衛の最良の施策なのかどうか、あるいは、東アジアにおける正しい抑止力というものはどういう構図で配置されるべきであるか、そして、何より普天間基地の機能を具体的にどの場所に移設するべきであるか。こういうことについて包括的な提案をしているメディアは一つもありませんでした。
・メディアだけではなくて、政党をはじめとする政治団体もまったく同じで、あの段階でマジョリティーを説得できるような対案をどれ一つとして提示できていませんでした。そして、まるで評論家のように(中略)中身ではなしにやり方がまずいと批判を繰り返したのです。
・抑止力の別の構図が提示できていないということ、それから、基地は私たちの地域で引き受けると言った地域が日本中どこにもなかったということ。あるいは、逆に基地の移設はあそこがベターであるということを具体的に言ったメディア、政党が一つもなかったのです。メディアは、その苛立ちを、「首相の無能ぶり」にぶつけていたわけです。
・ちょっとうがった見方をすれば、人々は、あるいはメディアは、そういう非常に困難な問題の解決に当たって、自分たち国民自身、あるいはメディア自身が本当の意味で無能であるいということから目を逸らすために、責任転嫁するために、一人の首相の能力にそれを転嫁したのではないか。そういうふうに思える事態であったと私は思っています。だから決断できない鳩山首相の存在というのは、皮肉なことながら、まさにあの時点で日本の国民の象徴であった、と言えるのではないかと思います。
・いま、私たちに、本当の意味で求められているのは、政治というサービスを消費する顧客としての振る舞いではなくて、むしろ受け身ではない市民として社会を進んで担っていく振る舞いを私たちがどのように身につけていくのかということではないかと思うのです。
・「国民たる者は一人で主客二様の職を勤めるべきである」と言ったのが福澤諭吉でした。私は先の政権交替後の経緯を見るにつけ、どうしてもこの福澤の考え方を思い出さずにはおれませんでした。
・政府をつくり、それにいろいろなルールをつくり、そこに委託し、そして約束を守っていくという(国民は)まさに政府の主人である。が他方、そのさまざまな仕組みの恩恵をこうむるという意味では、客でもあるわけです。けれどもわれわれが委託しているこの政府の考え方、あるいは目指しているものがや命令してくるものが人々に被害を及ぼすようなものならば、国民は遠慮なくしっかりと議論して、政府の間違いを突き、そして民権を回復しなければならない。そういう危機のときには、もう一度国民みなが政府の主人に戻るべきなんだと言い、そのことを「一人にて主客二様の職を勤めるべき者なり」と言っていたわけです。
・いわゆる、クレーマー社会、夥しい数のクレーマーの出現というのを、私は維新以降の日本の近代産業社会の必然的な帰結だと思っています。
・近代社会というのは、「命の安全」というものをより確かなものとするために、人の命のケアに関わることは、全部プロフェッショナルを養成し、そちらのサービスに委託させるような形を取りました。
・そのことでたしかに人々の安全は確保され、寿命は延び、非常に福祉の充実した社会になってきたわけです。しかしそれを裏返して見るならば、それまで家族や地域でやっていた「命のケア」というものをする能力を、私たちが知らない間に、かなり深く喪失したということでもあります。
・そのように、大切な「命のケア」がすべてソシアル・サービスや行政のサービスに委託されるようになりますと、そこで何かサービスが劣化したり、滞ったりすれば、市民は当然「税金というサービス料を払っている、すべきことは義務を果たしている、つまり私には咎は何一つない、だから行政が悪いんだ」と、クレームをつけることしかできなくなります。
・クレームをつけるということは一見激しいことのように見えますが、私に言わせるとクレーマーというのは極めて受け身な存在なのです。なぜかというと、行政、あるいは総合サービス企業が準備するケアのシステムに、もっと安心してぶら下がっていられるようにしろという抗議だからなんです。滞っているシステムをこんなふうに変えたらいいとか、あるいは、そのシステムは誰かが担わないといけないのですから、そのシステムを自分も部分的に担うような提案をするとかいう気が毛頭ない。私には市民(シティズン)としては極めて受け身な要求であるようにしか見えないわけです。
・この市民がいま自分が「シティズン」であるということ、つまり「主」であるということを忘却して、顧客であり、いろいろなサービスの消費者であると勘違いしている。つまり「主」じゃなくて「客」だと自分を勘違いしているということへの警告というものを、福澤諭吉の「私立」という思想から学べるのではないだろうかということです。「私立」という言葉、これは民間が独立するということでありましょう。

少々長い引用になってしまいましたが、本当にその通りだなあと思いました。結局大事なのは、自分としてはどうすることが良いのかを考え、その考えに従い行動すること。あくまで自分がどうするかというのが一番大事だと思うのです。
なんていう記事を書いていたら、文武両道さん、あごらさんが「たまたま見た国会中継にて」へのコメントで同じような文脈でお話し頂いていることに気付きました。やはりみなさん、今の世の中の流れを見て思うところ多々ありというところなんですね。


「「顧客」としての市民でよいのか -三田評論12月号より」に8件のコメントがあります

  1. あごらさん
    ご紹介記事で特に面白かったのは・・・
    「民主党の政治主導」(以下)
    役所の中では、事務方から「この公約を実施するとなると(かくかくしかじかの財源不足、問題、矛盾が・・・)」(三役一同しばし沈黙)
    副大臣「いろいろ課題があるのはわかりましたが・・・とにかく、マニフェストにもう書いちゃったのでやるしかないんですよ、なんとかするための知恵を出してください。」
    政務官「そうです、それをなんとかするのが皆さんの仕事でしょ。よろしくお願いします。」などという台詞が何回も飛び出す立派な政治主導の会議が行われています。
    民主党のマニフェストは本当に深く考えずに、また広い関係者の意見を聞かずにいろんなアイデアを並べているだけだったということを痛感しています。ひどすぎます。
    年金の制度設計はマニフェスト上も先送りされていてまだしも救いです。ほかの諸施策はもうとりかからないといけないので、政治家やなぜか入り込んでる党職員・政務秘書に敵視&監視されながら公約の尻拭いに従事させられる日々になりそうです
    「日本型マニフェスト選挙」の下では、選挙の後の議論は不要、つきつめれば、選挙で勝った政党のマニフェストに書かれてしまっていたらもうおしまい、その後は国会での議論も不要となる。ましていわんやである。
    選挙の前に、有識者さん達が集まってマニフェスト達成度チェックとかをやっていたけど、政治家も可哀想だ。誤りに気付いたり、予期せぬ事態に直面したりして政策転換をしたら、「ブレた」なる流行り言葉でマイナス評価を受ける時代になったんだから。政治家は、粛々と(意地になって?)マニフェストを実行していくしかないでしょう。その世界では、議論や批判は無意味——そして次の選挙のためのマニフェスト作成に関わらない国会議員は、採決のときだけ出席してもらう非常勤で済む話。

  2. 毎度の世論調査。
    NHK7時のニュースに開いた口が塞がらない。
    解散総選挙すべし
    (選挙にお金がいくらかかるの?
    これだけかかりますが、また解散してもいいの?
    地方の投票所の整理縮小しないとお金がかかるとまで
    新聞に出ているのに?
    また企業にも選挙資金のご依頼があります。
    小沢問題の根源は選挙とお金でしょう?)
    内閣改造すべし
    (法務大臣がなぜ代わったの?
    専門性がなくても務まる大臣をまた増やすだけ・・・
    天皇陛下の負担、引き継ぎ書の膨大な時間、お金のロス、
    官僚任せがますます酷くなるのでは?)
    小沢の選挙に勝つためには国会をガタガタにする、
    この手法で今度自民党が政権をとっても
    また同じことが繰り返される・・・
    ドイツも日本もいきなり軍国主義になったわけではない
    政党政治の混乱、それがキッカケだった。

  3. 年の瀬を迎えて、心穏やかにとはいかないようです。「あの中国漁船はひょっとして平成の黒船だったのでは?」と後々思い返さないようにしたいのですが、あれ以降の政治の覚束なさに歯軋りしかできない人は多いですね。嘆いてばかりでは何も変わらないのですが、私は早期の政界再編と選挙制度改革が必要と思っています。管理人さんご指摘の国民ひとりひとりの意識改革が大前提なのはいうまでもないことですが。
    今世紀になって変化が著しい国は何も中国ばかりではなく、ロシアやインドを始めインドネシア、ブラジル、トルコ等も、のようです。なんとか外交防衛政策に活路を見出してほしいものですね。

  4. 久々に拝見し久々にコメントです。
    三田評論、いい記事ですね。
    忙殺されている(気分の)自分が恥ずかしい。

  5. げんきさん、げんきですか?
    忙しいといえば、ポポさんもいよいよ大忙し・・・
    管理人さんとポポさんが互いに
    忙しいのによく頑張っているとエール交換なさっていますが、
    現役世代は、ますます忙しくなって
    同情しています。
    私も現役時代2足(会社・大学)のわらじに加え、
    3足(私塾)が加わり3足目を脱ごうとしたとき、
    尊敬する先輩から、無理をせず、でも止めずに
    継続することが大切だと諭されました。
    「継続は力なり」

  6. 民主党を支持するわけではありませんが、
    自民党の追い詰め方は、たとえ総選挙で政権をとったとしても
    また同じやり方で追い詰められます。
    マスコミは、こうなれば総選挙しかないと言いますが、
    時間とお金の無駄。
    アメリカでも共和党が同じやり方をしています。
    ギリシャの哲人たちは考えていた・・・
    民主政では、大衆は遊興と怠情に流されて、政治離れしていく。この先にあるのが、衆愚政治。
    有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況。
    知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、
    議論が空回りし、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、誤った政策執行に至る。
    また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、
    あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。大衆はやがて遊興と怠惰に流され始め、主体的に政治問題を思考する事に疲れてしまう。大衆の政治離れが加速するにつれて民主政治は衆愚政治へと堕落し、再びカリスマ的な指導力を持つ王(独裁者)による一括統治を待望するようになる。
    自分たちの頭で考えて意思決定することを放棄した大衆。日本の政治は民主政治だけれど、衆愚政治に入っているのか?

  7. 塾・塾対決!
    攻められる小沢
    攻める石原
    石原は普通部、塾高育ち
    政治を政権奪取ゲームにする
    塾・塾対決
    福沢先生が泣いている!

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