「ペンは剣よりも強し」を読んで

今年の年始は、小泉信三先生の本を読み続けている感じですね。
今回ご紹介する「ペンは剣よりも強し」は以前文武両道さんにご紹介いただいた本です。(注射のとき、針を見る? 目をそらす?

題名から想像すると、言論の価値の高さについて高らかに謳いあげているような内容かと思っていましたが、違いました。
冒頭はこのような文章から始まります。

「ペンは剣よりも強し」。
The pen is mightier than the sword.
この諺は何時からのものか。それはわれわれ筆をとるものにとっては快い誇りであって、私たちはペンのますます剣よりも強くなることを願ってやまない。私の学んだ慶應義塾は、交叉したペンを徽章にしているが、公平にいって、それは日本の諸学校の徽章のうち一つの主張を明示したものとして出色のものだといってよいであろう。

ここまではやはり「ペン」の価値の高さについて述べていますが、それゆえに、

しかし同時に思わねばならぬ。ペンが剣より強い、ということは、それが一つの武器であることを意味している。しかし、武器には常に濫用の危険が伴う。剣の濫用の危険については、今更いうまでもないが、それよりも強いといわれる筆には、果たして濫用の危険はないのかどうか。私は決して楽観することができない。武器の使用に慣れないもの、あるいはその使用の慎みを知らないものにそれを持たせるほど、危ないことはない。筆もまた然り。武器の濫用は人を傷つけ、またしばしば却っておのれ自身を傷つける。言論報道の自由はもとより大切であるが、私は今、自ら筆をとるものの一人として、特に筆を慎むことの大切であることを考えていい時節だと思うのである。

と自省の言葉が続き、全体的にその論旨が続きます。これは福澤先生以来ということで、福翁自伝からの引用もあります。
これは創設した時事新報の編集上の主義について語った部分で、

「私の持論に執筆は勇を鼓して自由自在に書くべし。但し他人のことを論じ、他人の身を評するには、自分と其人と両々相対して直接に語られるやうなことに限りてそれ以外に逸すべからず。如何なる激論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙にそれを記すのみにて、さてその相手の人に面会したとき、自分の両親に恥ぢて率直に述べることの叶はぬことを書いてゐながら、遠方から知らぬ風をして宛も逃げて廻るやうなものはそれを名づけて陰弁慶の筆といふ。その陰弁慶こそ無責任の毒筆となる。君子の恥づべきところなりと常々戒めてゐます」

との文章。これを平易に言い直している文章があり、

人にたいしていかなる非難攻撃を加えるのも自由であるが、ただそれは当の相手に面と向かって言い得ることを限度とすべきで、直接その人に向かっては言い得ないことを、陰へ回って筆で書くのは卑怯な遠吠えだ。

と書かれています。まさにその通りであると思います。私事になりますが、昨年仕事上で協力業者さんと業務の改善について話し合う上でアンケートをお願いしたことがあります。その際記名式としたのですが、これに対して反対意見も結構ありました。曰く、記名式にすると言いたいことも言えなくなるので、無記名の方が真の意見がでるのではないかと。確かに真実を言うと大変な危害が及ぶ恐れがあり、発言した人の生活、ひいては生命をも危ぶませるという時は無記名である必要があるのですが、自分がその意見が気に喰わないからと言って取引に影響を及ぼさせるという考えがない限り意味のないことであり、もし自分がそういった人間だと思われているのであれば、それはそれで自分の不徳の致すところ。それより、無記名であるがゆえに建設的ではなく、批判のための批判の意見が集まることを嫌ったからです。結果的にはいろいろ傾聴すべき意見が集まり、まだまだ改善を継続して行わなければいけないこともありますが、大変有意義な会が出来ました。やはりお互い「面と向かって言い得ることを」話していかなければいけないですよね。ネットでの論議になっていない論議を見ると、その感をより強くします。
その他にも共産主義者に対する時系列を追った思想上の変遷に対する批判、ソ連・中国が協定を結ぶ際に日本を仮想敵国と明記したことに対する反発は少々時代背景があるとは言え、今の世の中の国際情勢にも通じるところがあるように思いました。
また、プライバシーに関してもこんな言葉が。

個人の私生活は、それが公共の利益や必要に反することのない限り、どこまでも保護されなければならぬ。塀の節穴からののぞき見に類するものの記録、またはそのまがいのものを、報道の自由、また創作の自由を名として公表することは許さるべきではない。いわんやあること、ないことでなく、ないことをあるかのように語るにおいてをや。報道も創作もいずれも大切なことにはちがいないが、人の生活そのものは、もっと大切である。私事を暴かれたものの不快と、これを暴いたものの満足とは衡りにはかけられぬ。他人の私事を語り、あるいはそれを聞くことは興味のあることかも知れぬ。けれども、そのような興味のために他人に不快−時としては深刻なる不快−を与えることは、苟も人間尊重の本義を知るもののなすべきことではない。
この点において、従来の言論には不公平があった。報道・創作の自由を主張するものは−記者、作者がおもであるから−発表機関をもっている。これに反し、いわば被害者側のものには、発表機関がない。仮に新聞雑誌の紙面を提供されても、文章を書き慣れないから、思うことが充分にいえない。

全くもってその通りのことを感じていました。昨年の年末は、報道はテレビ、新聞、週刊誌挙げて海老蔵問題を取り上げていました。それも片方は名乗りもせず、ずっと「元暴走族リーダー」とぃう肩書きでの(この時点でどうして疑問に思わないのか不思議で仕方がなかったです。マスコミはどんな階層の人よりああいった階層の人を尊重するようになったのでしょうか。彼らがマスコミの選別をしていたにも関わらず・・・)発言を大いに取り上げ、毎日のように小出しの報道。その時期は安保理の緊急ミーティング(今後の極東情勢を占う試金石となる)や民主党内の紛争(菅総理対小沢元幹事長)など、いろいろなことが起こっていましたが、大した興味もなさそうに通り越す。自分から見れば、国の大事より一芸能人の酒席でのプライバシーの方が人目を引くので報道しようとマスコミが判断したとしか思えません。少なくとも報道に関しては視聴率・売上げを過度に意識してほしくないのですが・・・。
いずれにせよ、どの立場であれ大事なことは自省し、自らが恥ずかしくない存在であるよう、常日頃から努力していくことだと思います。自分もそういったことを意識して、過ごしていきたいと思います。
これまた日本伝統のリベラリズムと言った感があるので、ご興味ある方は是非ご一読されてみてはいかがでしょうか?

「「ペンは剣よりも強し」を読んで」に9件のコメントがあります

  1. 前回のあの本から、すっかりアマゾンのお勧めに(^-^)

  2. 今回我が家の図書館から持ってきた
    本に「現代の教養・1970年は目標か」
    というタイトルの本があって、
    その頃、既に
    「自由な言論と報道の機関である新聞の
    存在そのものが、逆に言論の阻害している」
    という指摘がなされていて・・・
    売れるから売るという性質のものではないのが、
    「言論と教育」
    言論と教育に携わるものは、
    福沢諭吉と小泉信三を是非読まれたし!

  3. 「英語より論語」という藤原先生の自説。
    福沢諭吉は孟子から漢籍を始めた・・・
    吉田松陰の私塾も孟子から・・・
    漢籍で培った論理構成力が、
    英語を外国語として学ぶにも役立つ。
    秋山真之も英会話を学んだわけではない。
    文藝春秋と
    坂の上の雲を思い出しました。

  4. 海老蔵事件のくだり、興味深く読ませていただきました。そうなんですね。ノリピー事件の時も確か政権与党にとっては絶好のタイミングでマスコミ、特にテレビはくどいくらいに放映しましたよね。今北海道で静かに進行している中国資本による森林買占めや前原発言の重要性などについてはあまり放送されません。小泉先生の時代はペンしかありませんでしたが、現代は映像という物凄い武器が発達しています。「政治とは硝煙のない戦争」と言ったのは毛沢東だそうですが、テレビ局に就職が決まったブログ王子の活躍に期待が膨らみます。初代王子、杉並のクソガキ君にも頑張ってもらいたいですね。

  5. kkft様
    今夜の報ステが、その森林特集を放映予定です。
    今日は、七草。私は仕事で疲れた身体をお粥で♪

  6. 黄色と黒は勇気のしるし♪さん
    コメントありがとうございます。
    相変わらず鋭いですね〜[E:coldsweats01]
    この本を最初に文武両道さんにお薦めいただいて、それを覗いたときに「練習は不可能を可能にす」とかがおすすめで表示されたので、そのままぽちっとな、でした。
    芥川賞と直木賞の受賞をたとえて「美女と野獣」と言っていたのを聞いて、うまい!と思ってしまいました。女性の方の
    「曾祖父は実業家の朝吹常吉と元衆議院議長の石井光次郎、高祖父は実業家の朝吹英二と陸軍軍人の長岡外史。」
    に驚きました。でもそういった家系の人があそこには時々いるなあなんてことを思い出しました。兎にも角にも受賞されたお二方、おめでとうございます!

  7. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    「自由な言論と報道の機関である新聞の
    存在そのものが、逆に言論を阻害している」
    とはまことに本質を突いているように思えます。
    この本のタイトルそのものである「ペンは剣より強し」なので、その効果たるや絶大なものがあるわけで、そのペンを司るものはよほど自省の心を持って取り組まないと、筆の暴力となってしまいます。戦前の枢軸国側にしても、また連合国側に報道によって、互いに憎悪を増大させていった面は否めないと思います。小泉先生がおっしゃったように、「言論報道の自由はもとより大切であるが、私は今、自ら筆をとるものの一人として、特に筆を慎むことの大切であることを考えていい時節」なのでしょう。
    英語はあくまで語学です。それと比して論語は言ってみれば生き方そのものを考えるものです。人生にとって何に重きを置くかによって変わってはくるのでしょうが、まず自らが独立してこそ、他者や他国人と交われると思うので、やはり「英語より論語」なのかもしれませんね。

  8. kktfさん
    コメントありがとうございます。
    古くは阿部定事件から、現代に至るまで兎角奇妙な事件の報道がある時には、何か社会にとって大きなことが起こっているような気がします。もしかしてカモフラージュなのでしょうか?
    いつぞやか、横須賀の土地を中国資本が買おうとしたそうです。今、そういった防衛に関わる土地の売買を規制する法律は確か大正時代に定められたもの。しかも陸軍大臣の許可が必要なそうですから、今では発動しようが無いみたいなことをテレビで放送していたように記憶しています。国家防衛、国家財政に対して、もっと真剣に考えないと、やがて日本という国が・・・、と考えてしまいますね。

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