「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 」を見て

放送からはちょっと経ってしまいましたが、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道」を見ました。
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まず最初のオープニングで、現代の日本人に「なぜ日本はアメリカと戦争したのか?」と投げかけ、その答えをクロスオーバーで出したのが良かったですね。
いかに、学校の歴史の授業というのがこの長い間何も教えていないかわかって。
もちろん一言で答えられる内容ではないと思いますが、かと言って何も考えずにただ
「軍国主義者に引きずられ、アメリカと無謀にも戦争を始め、アジアの人々を巻き込み悲惨な戦争となった。だからもう二度と戦争をしてはいけません。」
で終わらせている限り、日本人は世界で自らの世界観を持って他国の人と交われないでしょう。誇大妄想、自己肥大、などと言い方はいろいろありますが、とは言え世界における日本はどうあるべきか真剣に考えていた人たちがいたからこそ、戦後の日本もあったと思いますし。
で、本題ですが、新鮮な発見もあり、さすがNHKだなあと思いました。会長選びは別にして[E:bleah]
戦前の日本のターニングポイントを満州事変と国際連盟脱退において話は進みます。確かにその前から対華21箇条の要求、シベリア出兵、日貨排斥、日英同盟の自然解消などいろいろな萌芽はありましたが、その2つをターニングポイントとすることは、充分に納得のいくところです。
そして、松岡代表が国際連盟脱退において、最初は脱退になってしまい意気消沈していたが、帰ってからの英雄扱いに有頂天になったという知識はありました。
しかし、国際連盟での外交交渉で「リットン調査団の勧告を受諾すべき」と公電を打ち、受け入れられないとかなりの不満を再度打電していたことは知りませんでした。そしてリットン調査団の勧告を拒否すべしと指示した内田外相も初めて知りました。また面白いことにこの内田外相は英米協調派として知られていた方で当初は満州事変の事態不拡大を唱えていましたが、後に強硬派に転身。焦土外交で名を残すことになりました。
そして脱退もそれが目的と言うよりは、勧告を受諾しないと経済制裁を受ける(実際に1937年に当時常任理事国のイタリアがエチオピアに侵攻したとき、経済制裁を課し、それが理由でイタリアも脱退しています)のを避けるために、連盟の局外に出るという奇策だったとのこと。
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そしてその後一気に国際的孤立に走ったわけでもなく、各方面が孤立してはいけないとばかりに防共協定を軸に話したり、ドイツとの接近を図ったりしているが、どれも連携の取れた動きとはなっていない。
さらに軍部も暗号解読では相当のレベルにあり、各国の公電を傍受していたことがわかったが、その情報を軍部の外に出すことなく、独自の分析に終始してしまう。
その結果多面外交と言えば格好いいが、まとまりのない外交姿勢は各国の不信を買い、結局中央部としては一番乗り気ではなかったナチスドイツと手を組むことに。
そしてその背景には短命内閣が続いたことにより、一貫した政治体制が作られていなかったことも挙げていました。
非常に示唆に富んだ内容だと思います。
東京裁判の際、開戦時の大蔵大臣で戦犯に指定された賀屋氏が
「ナチと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画を立てたというのだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」
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と言ったそうです。誰もやりたくなかった対米戦争。もしかしたら対支戦争についてもそうだったかもしれません。でも部分的な解を持ち寄って、一見合理的な結論のように見えてしまった。部分最適が全体最適になるわけではないのですが、得てして日本では部分最適を重視するきらいがあるように思えます。
明治の時代は確かに藩閥政治ですが、それが故に基本線がぶれなかった。しかし昭和に入って四民平等政治(敢えてそう言わせてもらいます。政党政治だけでなく、軍部にしても特権階級の出ではない人が下克上のごとく活躍していました。つまり出自が関係なくなった世の中になってきていたのです。)となり、自分の目線内での多数派に流される政治になってしまった。戦後しばらく経った後の55年体制確立後は、自民党政治となり10年間の高度成長期の首相は2人だった(池田、佐藤)。2度のオイルショックの後に訪れたバブル期の基礎を作ったのは中曽根内閣。一旦は株価を立て直し、銀行の不良債権問題を解決し、インターネットの高速回線普及率を飛躍的に上げた小泉内閣。やはり実績を上げている時代は、政権も安定しているように感じます。
最近よく、首相が辞めるのは自由だという考え方がそもそもいけないのではないかと思います。もちろん本人の意ならずなんでしょうけど、派閥抗争で負けてというわけでもなく、ただ事態を打開するためという名目で総辞職するのは日本にとって大きなマイナスではないかと。
もちろん前の総理大臣のように、続けていることが悪のように感じることもあります。しかし、内閣を放り出す権利を総理大臣が持っているので、参議院選挙の前に辞任してしまった。なので参議院選挙は「鳩山内閣にNO!」と言われたのか、それとも「菅首相の唐突な消費税アップの話」が反感を買ったのか、さっぱりわからないまま、ただ推論ばかりが漂ってしまうと。なので国益のために政治家引退を取りやめるとか訳のわからないことも言えてしまうのかと。それよりもうまくない政治を行った内閣はしっかりと選挙で「NO!」を突きつけられて、一つのけじめをつけるべきだと思うのです。なので
1)首相は国会議員を辞職しない限り、辞任はしてはいけない。
2)現職総理は、少なくとも次の国政選挙にはその体制で臨まなくてはいけない。
とした方がいいのではと。我々国民も内閣は替わるものだと思ってしまうからいけないのかと。その人が首相になったからには少なくとも4年はその人が務めるのだと思わなければいけない。だからこそ、選挙の時に投じる1票を真剣に考える。そうあるべきなのではと思いました。
結局責任の所在が曖昧のまま進み、いわゆる空気(言い換えれば民意)によって方向性が決まると、とんでもないことにつながることもあるよというのが、戦前の教訓なんだと思うのです。
と思って次回以降の予告をHPで見ると、「空気に動かされた国家」「決意なき開戦」とありますから、その流れなんですね。次回の放送も楽しみです。

「「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 」を見て」に9件のコメントがあります

  1. そしてその背景には短命内閣が続いたことにより、一貫した政治体制が作られていなかったことも挙げていました。(これが現在の情況と同じ)
    部分最適が全体最適になるわけではないのですが、得てして日本では部分最適を重視するきらいがあるように思えます。(会社で部門企画部というところにいていつも感じていた、部門最適)
    自分の目線内での多数派に流される政治になってしまった。
    1)首相は国会議員を辞職しない限り、辞任はしてはいけない。
    2)現職総理は、少なくとも次の国政選挙にはその体制で臨まなくてはいけない。
    結局責任の所在が曖昧のまま進み、いわゆる空気(言い換えれば民意)によって方向性が決まると、とんでもないことにつながる。(まさに現代!首相にまで問責決議!
    政権とるためには何でもありの自民党!
    これも民主党が自民党を追い詰めたやり方!小沢流の政権をとってから後を考えよ!この空気を醸成するマスコミ!)

  2. 残念ながらこの番組を見忘れたのですが、貴ブログを拝読して「なるほど」と感じ入りました。ところで、管理人さんは今回の与謝野氏の入閣にはどのような感想をお持ちですか?マスコミも世論も、もちろん自民党の方々も予想通りこぞって「べき論」一辺倒ですが・・・。

  3. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    自分も、現在の自民党の姿勢にも幻滅しています。小沢流の政権奪取法、すなわちねじれ状態を最大限に活用し、法案成立・承認人事の邪魔をし、裏付けの無い財源論での公約設定など、とにかく政権は取ってから後を考えればいいの論に対するアンチテーゼで存在感を出してくれればと思ったのですが、出来損ないの小沢・鳩山流野党を演じているように思えます。少なくとも「愚か者め」を言う方も言う方だし、それを悪のりしてTシャツにして売り出すセンスが理解出来ません。
    マスコミが社会の木鐸たらんとしているのだったら、こういった政治の本質とは全く関係の無い、単なる党利党略(と言えるほど高尚なものにも思えないくらい)こそ非難すべきなのだと思います。

  4. kktfさん
    コメントありがとうございます。
    さて、ご質問の件ですが、ちょっと別記事にして掲載してみますね。どうぞ宜しくお願いします。

  5. 議会政治の病理とも言うべき
    相手への誹謗、中傷、権力闘争、
    その議会への不信感から
    軍の台頭・・・
    現地軍に大物を配することで
    現地の先行、
    大局より局地の重視・・・
    全体利益より自己の組織の利益。
    今回の放送も現代の政治、企業の
    抱える問題を考えるうえで、
    役立ちました。
    管理人さんの記事、また期待しています。
    次回のメディアの役割、空気の醸成・・・
    ここが最も期待するところです。
    管理人さんのこのシリーズ、楽しみです。

  6. 昨日の放送では、陸軍中枢部は対米戦を恐れ中国からの撤退も視野にいれていたようですが、
    国内世論が満州放棄を許さない空気を醸成していた、
    とメディアの煽りぶりを予想させました。
    多分、次回に明らかになりそうですが、
    言論弾圧より恐ろしいのはメディアによる「空気」醸成です。
    現在のメディアによる世論調査は見事にメディアによって醸成された「空気」
    によって導かれたまのだと感じます。
    第3回 “空気”に動かされた国家(仮)
    2011年2月27日(日)21時NHK放送予定

  7. 米国等に無理難題を仕向けられ、やむにやまれず戦争に至った。と私は考えております。
    幕末の薩長と徳川のように。戦争を容認してはいませんが。
    共同謀議:これは言いがかりですね。勝てば官軍、負ければ賊軍です。
    軍国主義者:何を持ってこの言葉を使うのか理解に苦しみます。国が戦闘状態になれば、あの時代誰が政治を担うのが一番良かったのでしょうか。
    東條首相:戦争犯罪人としてA級戦犯で絞首刑になりました。亡くなった父は、近衛文麿の「蒋介石相手にせず」が戦争を終わらせることができなかった根源と怒っていました。東條首相は和平の道を模索していたのがこの為に駄目になり、戦やむなしとなった時に全力で国を挙げて戦いに望んだということでした。
    私見で恐縮ですが、山本五十六元帥を崇拝する方が、私のまわりにわりといます。私はこの方が、大東亜戦争をとめられたのではないかと思っております。陸にいると暗殺の危険があるので連合艦隊司令長官に着任し、「戦争反対」を表明したものの、「半年や一年は大いに暴れて見せますが、其れより先は責任は持てない。」と言ったのは有名ですが、長として最前線で敵に首を取られるごときは、誠に失態と言わざるをえません。また、護衛にあたった六機の優秀な零戦パイロットのその後は惨めなものでした。
    海軍であれば小沢治三郎、山口多門、この二人が人物ではないでしょうか。真珠湾、ミッドウェイの指揮をとった南雲(彼のお陰で優秀なパイロットを多く亡くし戦況が変わりました。)は海軍でありながら、最後はサイパンで戦死していま
    す。(最高責任者は連合艦隊司令長官山本五十六氏です。)
    日露戦争終結時、日本海海戦でバルチック艦隊を破り、旅順を多大な犠牲を払い攻略し、奉天の大会戦でロシアに圧倒的に勝っていながら、不利な条件で終結させた軍部を批判して日比谷の焼き討ち事件を起こしたのは「国民」です。あれ以上の戦闘は日本に不利どころか敗戦が見えていたという軍・政治の判断です。明治の方の思慮深さには頭が下がります。
    >1)首相は国会議員を辞職しない限り、
              辞任はしてはいけない。
     全く同感です。しかしかの輩の理論は、首相は退いても、「選挙民からNOを言 われてわけではない。」と厚顔無恥なことを平気で口にすることでしょう。
    田母神さんが話している「、日本はきちんと軍備を持ち危機管理を国民が認識する。」ことを30年ほど前だと思いますが、栗栖さんがシビリアンコントロールと関連してして本を出されていました。結局平和ボケした日本は乱れるだけ乱れるしかないのでしょうか。
    何のために多くの血を流し、悲しみ、苦しい思いをしたのか・・・・。学徒は戦地に赴いたののでしょうか。
    大変長くなり申し訳ありません。                   三角ベース

  8. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    そう言えば録画したまま、まだ第2回を見ることが出来ていないことに今気づきました。今週中には視聴したいと思います。

  9. 三角ベースさん
    コメントありがとうございます。
    中身が深い内容なので、しっかりとご返答できるかどうかわかりませんが・・・、
    昭和16年付近の状況から考えれば、米国に無理難題をふっかけられ・・・、というのはその通りだと思います。では、なぜ米国がと言えばいろいろな要因があるとは思いますが、やはりヨーロッパ戦線に早く参戦し、ナチスドイツを前に青息吐息だったイギリス等の連合国を助けなければならなかったからではないかと。多くの債権もありましたし。
    であると、そこにつながる日独伊三国軍事同盟がひっかかってくる。更にではなぜその同盟が必要だったか・・・と考えると、孤立する日本外交が浮かび上がってくる。
    では、なぜ孤立していたかというと・・・、欧米各国の利権渦巻いていた中国大陸における日本の行動、すなわち満州国や上海事変等の軍事行動が挙げられると思います。
    では、なぜそんなことをしたかというと、日本の経済苦境と人口問題(当時は増加)、そして軍部の一部にあった最終戦争論などの解決策として、生命線論が出てきたことも関連するのではと。
    つまり、一つ一つの事象を紐解くと、そこに至らないような内容でも、複合化するうちにどんどん思いもよらなかった方向に事態が進んでいくということを、歴史は教えてくれているのだと思います。
    ここから後は私見です。
    近衛文麿の「爾後国民政府ヲ対手トセズ」は、その流れから言って唐突の感を否めません。そしておっしゃるように、これが決定的に中国情勢をどうにもならないものにしてしまいました。とんでも本の類のものの中に「近衛文麿は京都大時代から実は共産主義者で(まあ側近に尾崎秀実がいるくらいですから)、あの時の声明も中国共産党を助ける為」なんて書いてありましたが、もしかして?とすら思ってしまいます。
    東条英機は、何より天皇陛下に対する帰依心が強い人だったそうですから、お上の意志に従い、どうにか対米交渉をまとめようとしていたと思います。どこまで非戦の心があったかはわかりませんが。なので昭和天皇も東条英機に対して、結構信頼されていたようですね。彼の几帳面さは、理系の昭和天皇にはとても共感できるところがあったのだと思います。ただ、どうしても・・・。
    もし、山口多聞が艦と運命を共にしなかったら・・・。もし、小沢治三郎が年次の壁を乗り越え、少なくとも昭和17年くらいには作戦のトップに立っていれば・・・。と考えることがあります。アメリカはニミッツにしてもハウゼーにしても、柔軟な人事を戦時には行いました。どうしても水雷屋を機動部隊の長に据えてしまっていた日本海軍の人事的な硬直性と比べてしまいますね。
    そう言えば、小泉信三先生が戦後、あの謎の反転をした栗田提督との対談で「君、そろそろ真相を言ってみたらどうだ」って言われたみたいですね。
    あの戦争を止めるためには、もしかしたら日露戦争直後の満州共同経営案くらいまで遡るのかもしれませんね。少なくとも226事件の時に、皇軍相撃つになる必要がもしかしたらあったのかもしれません。
    明治の世の頃はまだマスコミの影響力がそれほどではなかったことも関係するでしょう。昭和の時代は、何を言っても普通選挙制度の中、国民が選んだ戦争だっと思います。
    あの戦争を決断するとき、「座して待ち、精神的な敗戦を迎えるより、戦って活路を見いだし、たとえ負けたとしても、その精神は・・・」と言った論があったようですね。でも結果論で言えば、あの戦争に「負けた」ことによって、彼らが大事にしようとした「日本精神」がずたずたになってしまったとも言えると思うのです。ウォーギルティプログラムは、どうしてあそこまで上手くいってしまったのでしょうか?
    学徒の気持ちで有名なところとしては、「戦艦大和の最後」に出てくる言葉があります。大方皆さんそれに近い気持ちを持っていたのではないでしょうか。何はともあれあれだけ激しく戦い、そして潔く負けたことから戦後の復興があったと思うので(兎にも角にも、地上戦が沖縄、硫黄島等だけで終わった)、彼らに対する感謝の心をもっと持つべきなのでしょう。
    「日本はきちんと軍備を持ち危機管理を国民が認識する。」ことは戦争狂でも軍国主義でもなく、ごくごく当たり前のこと。周辺諸国が嫌がっているのは、善悪の問題ではなく、パワーオブバランスの問題なのだということを、日本国民が理解することと決断することが出来るようになるのは、いつのことになるのでしょうか・・・?
    なんかまとまりが全くない返信ですみません。

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