海軍主計大尉小泉信吉を読んで



この本は中学生の時に読んでいるはずなのですが、今改めて読んでみると、あのときは流れなかった涙がこぼれてしまうのです。
この本は小泉信三先生の一人息子だった小泉信吉さんが念願の海軍に入営し、1年足らずたった後、南太平洋上で戦死されるまでとその余話を、先生が綴った手記です。
本の裏表紙に書かれている紹介文にはこう書かれています。

著者小泉信三の長男信吉は、昭和17年10月22日南太平洋において戦死した。年二十五。父母と祖母と妹二人とを後に遺した。その愛する息子を偲び、余暇をぬすんで日夜書き綴った手記は、涙をそそらずにはおかない。日本の師表と仰がれた畏敬すべき小泉信三の別の一面、たぐいまれな暖い家庭の父の姿を見ることができる。

まず、艦艇配乗となった時に先生が信吉さんに心置きなく勤務させたいと思って送られたという手紙に心打たれます。

 君の出征に臨んで言って置く。
 吾々両親は、完全に君に満足し、君を我が子とすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生れ替って妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若し我が子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいとおもっているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に言って置く。
 今、国の存亡を賭して戦う日は来た。君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人としてこの戦争に参加するのは満足であろう。二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥しくない、悔ゆるところなき立派な生活である。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。
 お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。
 父より

暫くは、物事を大事らしく言わない信吉さんの性格通り、紀行文とも思える信吉さんからの手紙を受けて、淡々と進む小泉先生の筆致が、逆に文中に引き寄せられます。
そして、幾分かの予感の後、呆気なく訪れる戦死の電報。淡々と進む、弔問。
そして、

 夜が更けて客が散じた。妻は信吉の経理学校時代、慶應義塾同窓の友達数人と共に写した写真を取り出して、見て、始めて泣いた。寝室に入って明かりを消した。子を失ったどこの親も同じであろう。私は信吉の二十五年の生涯の幾つかの場面を憶い出し、子は人並みの死に方をしたのに、親は親らしいこともしてやらなかったという悔恨に胸を噛まれた。闇の中に、「シンキチ、シンキチ」と呼ぶ妻の声がする。続いて何か呟くのが聞こえた。やがて戸の外に鳥が啼きはじめ、門前の環状道路には、声高に語りながら、また笑いながら行く、人の往来が始まった。間もなく朝になって、吾々も起きた。

 海軍省から戦死の電報が来たとき、私は外出中、妻は老母の許に来客があって手伝いに行って居り、家には娘二人と従姉が一人遊びに来ているのみであった。そこへ「親展電報」とあったので、娘等は開封すべきかすべきでないか、恐れ惑った末開封して兄の死を知ったのである。二十一と十八の少女二人、父母の帰宅を待つ間の心は、想像すれば哀れというべきであろう。

その後、妹の加代子さんの歌、妙子さんの散文詩、武井主計中将の歌、山本五十六連合艦隊司令長官の手紙などが紹介され、どれもまた心を打つ内容です。
そして終わりの方で、信吉さんの一周忌の時、親類の多いことを喜んだ信吉さんを慰めようと60人くらいを晩翠軒に招待された際の挨拶も載っています。

(前略)信吉は果たしてどんな特徴のある男であったか、親の私には分かりません。ただ一つ言えることは、皆様もよくご存じの通り、信吉はよく笑う男で、また笑いを好む男でありました。それゆえ今晩も皆様が一晩賑かに笑って下されば信吉は、それを何より喜ぶであろうと思います。

翌日、義兄の方から手紙が来たそうです。歌一首。

笑うこと 好みしこゆゑ 笑ひねと
父の語るを きけば泣かるゝ

そして、最後はこう締めくくられています。

 親の身として思えば、信吉の二十五年の一生は、やはり生きた甲斐のある一生であった。信吉の父母同胞を父母同胞とし、その他凡ての境遇を境遇とし、そうしてその命数は二十五年に限られたものとして、信吉に、今一度この一生をくり返すことを願うかと問うたなら、彼れは然りと答えるであろう。父母たる吾々も同様である。親としてわが子の長命を祈らぬ者はない。しかし、吾々両人は、二十五年の間に人の親としての幸福は享けたと謂い得る。信吉の容貌、信吉の性質、すべての彼れの長所短所はそのままとして、そうして二十五までしか生きないものとして、さてこの人間を汝は再び子として持つを願うかと問われたら、吾々夫婦は言下に願うと答えるであろう。
 信吉は文筆が好きであった。若し順当に私が先きに死んだなら、彼れは必ず私の為めに何かを書いたであろう。それが反対になった。然るにこの一年余り、私は職務の余暇が乏しかったので、朝夙く起きて書いたり、夜半に書いたりしたこともあるが、筆の運びは思うに任せず、出来栄も意の如くならなかった。しかし信吉は凡てそれをも恕するであろう。彼れの生前、私はろくに親らしいことがしてやれなかった。この一篇の文が、彼れに対する私の小さな贈り物である。

この本は私家版として三百部限定で刷られたものだそうです。その後、小泉先生の生前、幾度となく復刻したいと言われたことがあるそうですが、そのたび、
「あの本を出すのは、また、あの本を読まなくてはならぬ。僕にはそれはとても悲しいことなんだ」
と言って断られていたそうです。さもありなん。
あとこの本を読んで始めて「戦歿慶應義塾員讃歌」というものがあったことを知りました。さすがにメロディーはわかりませんでしたが、その歌詞にも胸を打たれます。
何とも言えない読後感が残る、名著だと思います。それにしても今になって読んでみると、幾度となく涙が流れてしまうのはいったいなぜでしょうか・・・。


「海軍主計大尉小泉信吉を読んで」に7件のコメントがあります

  1. 君はなお父母に孝養を尽くしたいとおもっているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。
    弟は息子の結婚式に上記の言葉を紹介したあと、
    「君は、お父さん、お母さん、これまで育ててくれてありがとうと言うが、我々こそ君を育てる喜びを得た。君にありがとうと言いたい」
    と結んで挨拶を終えた。
    「なかなかよかった」
    と後で耳打ちすると、
    「兄貴の書棚から借りたんだ」

  2. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    いいお話ですよね〜。披露宴の席上で親にそう言われるとは、そのご子息もかなりの幸せ者ですよね。
    でも確かに親の立場からすると、子供から得られる喜びは大きなものがあるんでしょうね。この本で淡々と抑えながらも、深い愛情を随所に含ませた文章がありますよね。
    本当にいい本を読むと、しばらく余韻に浸ります。この本はもの悲しいお話でしたが、ずっと余韻に浸っておりました。

  3. 濱田洪一さん
    お初のコメント、というかそもそも拙ブログにお越しいただきまして、本当にありがとうございます。
    濱田様のホームページの冒頭の掛け軸は大変印象深く、自分もよく拝見させていただいておりました。
    書評も拝読させていただきました。淡々とした筆致、エピソードが主なのにあの本の世界の続きを感じさせていただける文章、あたかも水墨画の世界のようで、このような文章を自分はいつになったら書くことが出来るようになるのだろうかと思った次第です。
    小泉信三先生はきっと戦争に賛成でも反対でもなく、国民の勤めとしてこの戦争を頑張り抜かねばならないと覚悟されていたと共に、合理的でない判断に対してには大変批判的だったのでしょうね。後年の共産主義批判でも、そういった部分を多々感じます。こういった方を真の愛国者、自由主義者と言うのだと思いました。

  4. 管理人さん
    私のホームページを見ていただき、書評も読んでいただきありがとうございます。
    「松本くん、どうもありがとう!」に、コメントを書き、その後どうなっているか見に来て、こちらの管理人さんのコメントに気がつきました。
    「KEIO革命」、「現代語訳学問のすすめ」もこちらのブログで知り、読んでます。「学問のすすめ」は、卒業後50年近く経って初めて読み、改めて福澤諭吉の現在に通じる考え方に感心してます。訳者の斎藤孝さんが、どの言葉をどう訳したのか知りたくて、今日、ケイオウオンラインを通じて「コンパクト版学問のすすめ」というのを、注文したところです。

  5. はじめまして。
    還暦を過ぎた団塊世代の者です。
    何気なくネットを見ていたら、小泉信三の名前が出てきました。
    「そうだ、息子さんのことを書いた『海軍主計大尉小泉信吉』というのを何十年も前に読んだな」「今読む人はいるのかな」と思い検索してみるうちにこのブログにたどり着きました。
    だれが購入していたのか覚えていませんが、我が家に小泉信三全集がありました。
    内容は難しくてほとんど読めませんでしたが、この『海軍主計大尉…』だけは一気に読んだことを覚えています。
    本当にすばらしいご家族ですよね。
    また読んでみようと思います。

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