右往左往を見るにつれて

我々は一寸先は闇と言うか、ちょっと先の未来ですらどうなるかわからず、不確実で予測不可能な人生の旅路を歩いています。

だからこそ、どうやって生きていくのか、何を大切にして生きていくのか、周りの人にはどう接していくのか、我々が生きている社会とどうやって関わっていくのか、こういったことに思いを致していかないと、不確実性のある、予想し得ない現実に対して、心は右往左往するばかりです。

今回の新型ウィルス問題もそうですし、我々日本人は、何か心の原点というか拠り所が、無宗教という名の下に無くしてしまっているのではないかと思うことがしばしばあります。

たまたま偶然からクリスチャンの方とFBとなっています。その方周りでは俗に言う右寄りの会話が多いのですが、そこでやり取りされている内容を見ても、他の方々の党派的な投稿とは違い、人間を見つめた内容のものが多いと思いますし、ご本人はどう感じていらっしゃるかはわかりませんが、ちょっとしたユーモアと共に芯がぶれない内容が多いように感じます。

別にだから宗教に帰依しようという話ではありません。自分は論語に代表される儒教にしても、キリスト教にしても、仏教にしても、ギリシャ哲学にしても、新渡戸稲造さんの書いた「武士道」にしても、大変共感できる部分があります。

元々は修身という言葉は「修身斉家治国平天下(天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。)」という言葉から取ったので、そういったことを目指した授業だったのでしょうが、軍国主義と相俟って戦後強い反発を一部に与える印象の言葉となってしまいました。道徳という授業もある一定の従順な国民を作るための授業といった印象にされ、なかなか方針が定まらないように思います。

なので、「哲学」というお題目にして、色々な哲学を紹介する授業でもして、心の拠り所に思いを致すことを早い段階からした方がいいのでは?と思うのです。色々な哲学的な考えに触れて、自分はどのようにして生きていくのか思いを致す。この時間を早いうちに得た方が良いように感じます。自分は、江戸期の専門的な学問に入る前に論語の素読を幼少期から行なっていたというのは、優れた教育システムだったのでは?と思います。

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