平和と軍隊 その2

大分時間が空いてしまいましたが、こちらについて自分の思っていることを。

「国家とは戦争をする機関である」ということです。しかも、開戦の決断はいとも簡単にあっさりと行われます。何故なら戦うか否かを迷っている暇はほとんどの場合無いからです。戦争とは詰まる所やるかやられるか。フォークランドであればアルゼンチンの実行支配が成立してしまったら終わりです。これは断言出来ますが、戦争は突然始まるのです。この国でしばしば耳にする「国民的議論」などする暇は一秒たりともありません。

起きるときはあっさり起きます。臨界点をウッカリ越えてしまったら、簡単には止まりません。原発と同じ。それだけは理解して投票所へ向かって欲しい

全くその通りだと思います。なぜならば国家で無い限り、武力行使はテロ行為であり、国民に対する強制的な動員を行うことが出来るのも国家だけです。古来より戦争という物がある以上、国家とは戦争をする機関であるわけです。
そして、それは突然やって来ることも多々あります。攻める方からすれば、より大きな効果を挙げるためには情報を秘匿する必要があり、大多数の国民にとっては突然始まるというものになるでしょう。また守る方からすれば、フォークランド紛争の際のイギリスのように、自ら欲した戦争でもなく、他国の攻撃から始まることもあるのです。
以前にも書きましたが、戦争、特に負け戦ほど悲惨なことは無いということは前回の戦争時に日本人はイヤと言うほど味わいました。なので、戦争は忌避する物として一般的に大多数の国民は思っています。
しかし、多くの国の場合、戦争は歓迎されていないにせよ、忌避する物としては捉えられていないことは、中国・韓国・北朝鮮はもとより、いわゆる西側諸国に於いても多く見られる現象です。
ということは、相手にとって我に義ありとなれば、自らの国が欲しなくても戦争になることも十分にあり得るわけです。
では、それを防止するのはどうするのか?
よく、玄関先にセコムとかのステッカーを貼ってあるのを見たことがあると思います。あれは何か?ここの家はしっかりとした防犯対策を取っているから泥棒に入ってもムダだ!と言っているわけです。
また、腕っぷしの強い人がいじめの対象となることは余り聞いたことがありません。そりゃあ、仕返しは怖いでしょう。
つまり、それこそが軍隊の役割です。中国の古典の易経にこんな一節があります。
「是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘乱,是以身安而国家可保也」
4000年以上前から中国ではこの言葉が唱えられていました。そしてそれが廃れずに今に伝わっていると言うことは、それが普遍の真理の一つだからでしょう。
山本五十六は「百年兵を養うは、ただ平和を護らんが為」と言ったそうです。逆説的なのですが、しっかりとした軍事的実力を伴った防衛体制があることが、その国の平和を担保するのです。
しかし、同時に軍隊は人を殺傷し、国土を破壊する恐ろしい暴力装置(敢えて使ってみました)でもあります。うろ覚えですが、昭和天皇陛下のお言葉として伝えられている中に、「軍人はどうしても新しい兵器が出来れば試したくなるもの」といった趣旨のものがあったように思います(間違えていたらすみません)。まこと、そのような体験をされてきただけに重みがあるお言葉だと思います。
そのために編み出した知恵が「シビリアンコントロール(文民統治)」な訳です。民主党のどこかの大臣が言っていた「素人が見るのが本当の文民統治」では全くありません。その獣性を強固な理性で御してこその平和と軍隊なのです。
自分の意見として、日本は当然に軍隊を持つべきだと思います。それは戦争しようとするのではなく、逆に平和を護らんが為にです。そしてそれには一つ大きな条件があります。しっかりとした軍事的素養を持った文民が軍隊を統治出来ることです。野田内閣で2人続いた防衛大臣のような人が統治するのであれば、日本という国は軍隊を持つに値しない国と言えるかも知れません。強い力と、それを制御する冷静な理性を兼ね備える国となるべく、努力していくべきだと思っています。

「平和と軍隊 その2」に2件のコメントがあります

  1. 治安の良いグアムで起こった「誰でも良かった」殺人事件、ロシアに落ちた隕石、またまたミサイル発射に向かうと伝えられている北朝鮮の動向。いつの間にか何があっても不思議ではない時代が来てしまいましたね。老若を問わず国民ひとりひとりがこれまで以上に政治の動向を注視して行く必要がありそうですね。安倍首相訪米の成果に期待しましょう。戦後レジームを早く終わらせるために。

  2. kktfさん
    コメントありがとうございます。
    「何があっても不思議ではない時代」は、長い時代の中でも普通の事ではなく、稀なことだということを我々は歴史から学ぶべきだと思います。大抵の事象の場合、ある人にとっての利益はある人にとっては損害となってしまうため、どうしても衝突は起こりうると思うのです。それを抑えるのは、理性の力か、それとも秩序を守る強い力か、あるいは愛か、色々と人類は試行錯誤してきた結果、今までの累々とした歴史があると思うのです。パクスロマーナ、パクスアメリカーナ、江戸時代を考えると、結局の所秩序の中心となるところの強い力と、その割に結構締め付けが緩く庶民生活に対する束縛の度合いがきつくない時代が、そのまま平和な時代と言えるのではないかと最近思っています。

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