ペリーはどの海を通って日本に来たのか?

歴史の授業は尻切れトンボと言われていても必ず教えられるであろう、ペリー提督の黒船来航。

なんとなく、軍艦の武力を背景に江戸付近まで来て、強引に開国を迫ったといったイメージでした。

また、アメリカから来るんだし、その後の咸臨丸も太平洋を渡ってきたのだから、当然ペリーも太平洋から来たと思っていました。

ところがこの本を読んだら一気に印象が変わりました。

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これはペリーが記録と共に著述者に依頼して書いた遠征記。これを読むと、ペリーが日本に来る前にいかに日本という国を研究し、ある意味尊重していたかがわかります。

日本という名前の語源から始まり、地理的な話、音読み訓読みの言語構成から中国人の末裔では無い、身体的特徴、政体は世俗的皇帝(将軍)と宗教的皇帝(天皇)が並び立っている、神武天皇が紀元前660年に建国した、外戚が跋扈、(源)頼朝が征夷大将軍となり実権を握る、一六世紀中頃内乱状態、尾張候が有力だった、臣下の秀吉が優秀、尾張候が暗殺される、秀吉が天下を取る、朝鮮出兵をする、1598年に亡くなる、顧問役の家康の孫娘と息子を結婚させた、三河候の家康は約束を守らず天下を取った、帝(天皇)は京都に、将軍の居城は江戸にある。

こんな書き出しなところに、びっくり。

しかも、ペリーはアメリカ東海岸ノーフォークを1852年11月24日に出港、江戸湾に入ってきたのが1853年7月8日。その間、セント・ヘレナ島、モーリシャス、セイロン島、シンガポール、マカオ、香港、広東、琉球、小笠原と世界一周しながら廻っていたのです。思っていたのと全く反対方面でした(^_^;

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訪れた各地の様子を事細かに描写し、また連れてきた画家の絵も残しています。変な思想的なバイアスがかかっていない分、当時の世界の様子が目に浮かぶようです。彼はアメリカの東洋艦隊の司令長官だったわけですね。

また、鎖国に至る経緯の考察も大変興味深いです。ポルトガルとスペインの悪事(日本人奴隷を売りさばくとか)とオランダの裏切り(自分だけいい子になって他の国を蹴落とす)によってこのような体制になったと慨嘆しています。

他にも彼の日本人評は今にも通じる鋭さがあります。ただ決してけなしておらず、寧ろ文明国として高く評価している部分もあります。あの時代を変に卑下することは、やはり無いなと思いました。

文字数も多く、ちょっと気合いが入りますが、今年一番の自分の中でのヒット作品と思っているので、宜しかったらどうぞご覧になってみてください。

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