山尾議員の問題で感じるリトマス試験紙的要素

ちょっと前に週刊文春が山尾議員の不倫問題を報じてから、いつもとは違った形でざわついています。

つまり、通常であれば、政権側の男性が不倫をして、それを野党側(主として左翼系)が倫理上の問題から糾弾し、政局に発展することもあるといった具合でしたが、今回は1)野党側の2)女性が不倫をして問題になるという、いつもとは逆転した状況で報じられました。

今回の問題の是非については、自分の意見は一言で言えば「くだらん。そんなのは当人同士(こちらは深刻な問題でしょう)でしっかりと話し合うか結論を出して欲しい。それより社会問題や国際情勢についてもっと論じ合って欲しい。」といったところですが、それとは別に、反対の状況が現出した時に、それぞれの評者の質がわかるんだなといったところが、興味深く感じます。

まずは1)野党側といった部分に対してですが、マスコミやSNSに登場してくる方々の大多数は、自分の党派に忠実だという印象です。即ち政権側の主張の方々は今までは「不倫は問題だが、政治家は実際にどんな政策を実行するかが大事だ」といった論調でしたが、今回は「政策を実現しようとする人が倫理的に問題な行動を起こすのはけしからんし、説明責任を果たすべき」と論じ、野党側の主張の方々は今までは「政策を実現しようとする人が倫理的に問題な行動を起こすのはけしからんし、説明責任を果たすべき」と話していたのが、今回は「不倫は問題だが、政治家は実際にどんな政策を実行するかが大事だ」と主張されているように感じます。

また、2)女性がという部分については、「週に4回も不倫していれば待機児童対策も真剣に取り組みたくなる」とか「舌なめずりしている顔」とかを、悪く言えば「嬉々として」掲載しているマスコミや政治家(これは与野党問わず)を見ると、この世界の人たちは口を開けば「男女平等」的なことを言いますが、黴のようにまとわりついている女性蔑視の感情が残っているように感じます。

つまり今回の出来事は、今まで言っていたその人の主張が自分の信念からのものか、それとも党派的な発言だったのかを判断するには、なかなかのリトマス試験紙的な意味合いがあったように感じます。そう思うと、これはこれで意義のあった出来事と言えなくもないのかもしれません。

自分が最近の政治論争がとにかくつまらないと感じるのも、結局はその人の立ち位置だけわかれば、何を発言するか大体わかってしまうからです。結局相手と建設的な議論をして最大公約数的な解決点を探るのではなく、自分たちの言いたいことをひたすら言い合うだけというのは、何も生まないと思うのです。多くの人が暗黒時代と思っている昭和初期の帝国議会の論争の方が、余程それぞれの信念に立って為されていたように感じます。

ただ、それとは別に、こういった政局が最近は週刊誌発のスキャンダラスな報道から始まっていることには強烈な違和感を感じます。政局は国民生活にとっての問題から生じるべきだと思います。例えば、消えた年金問題は、前回の安倍政権にとっては大変痛い報道だったと思いますが、社会保障体制を考える上では必要な議論だったように感じます。それに対して今のもりかけにしても、不倫問題にしても、国民生活への影響は殆ど無く、妬みや冷やかしといった余りよろしくない人間の感情だけに訴えているように感じます。そういったものに流されないようにするのが、有権者としての矜持だと思うのです。週刊誌によって作り出される政局に政治家も国民も右往左往するような状況から、早く決別してもらいたいです。

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