日韓併合時の韓国の人の感じ方

お隣の国で、ロウソクデモあたりからどうなんだろう?と思っていた感じが、あの人が大統領になってからどんどん表面上に出てくる感じで、これはきっと潜在意識の顕在化みたいなものとして見ていました。

そんな中、「盗人猛々しい」と言ったと報じられたあの大統領の言葉の原文が「賊反荷杖」という言葉だそうなんですが、あるページには「居直る、主客転倒といった意味の言葉で、盗人猛々しいとは煽りすぎの訳だ!」と書かれていました。

漢字を見る限り、とてもそんな風には見えないと思って、webで調べたところ、韓国語辞典とかでもやはり「盗っ人猛々しい」と訳しているのですが、他の検索結果の中で、こちらのページに行き当たりました。

どうやらこちらのブログ主様は、語学に堪能な方で、韓国語にも通じている方のようなのですが、こちらのブログの中で「日帝時代の証言」というカテゴリーの記事に目を奪われました。

タイトルの名前の通り、日韓併合期(1910−1945)を生きた韓国人の方の回想記を紹介したものです。どの文章も、とことん搾取し虐げる鬼のような日本人でも無く、日本が素晴らしい事をした!というのでも勿論無く、多分そうだったんだろうなあと思えるお話ばかりでした。

父は,軍国主義日本の敗戦を心から,喜んでいたのでした。でも,この父は,同時にその深い心の底において,人びととしての日本人を,自分の朝鮮を限りなく愛していたと同じように思うことができる人だったのでした。

 戦後まもなく,駅の近くに闇市ができはじめたころのことです。この闇市から,悪いうわさが流れてきたことがありました。朝鮮人が闇市でいばっている,といううわさです。多くの朝鮮人がみんなそうだったわけではないとしても,なかにはそうしたことが事実としてあったのでしょう。このうわさが,父の耳に入ったときのことです。父は,きびしくまゆをひそめて,およそ次のように言ったものでした。

〈朝鮮は,いまやっと解放を迎えたばかりだというのに,よくもまあ,いばっている暇があったもんだ!〉

 そしてまた,父はつづけたのでした。

〈日本人は,朝鮮が困っているとき,助けてくれようとしなかった。じゃが,いまは,日本が困難にみまわれているときじゃろ。朝鮮人は,この困っている日本人を踏みつけにして,うらみを買うようなことをしていいのじゃろか。これまでの日本人と同じことをしては,なんにもなるまい。他人のうらみを買うことをしたら,あとできっとそれは我が身に返ってくることになるんじゃ。困っているときは,だれとでも助け合うのが,人のとる道じゃろ。この人の道を踏みはずしたら,朝鮮の解放もありゃせん。解放されたというからには,困っている人を助けてこそ,ほんとうの解放というもんになるのじゃないのか。いま困っている日本人を,困っているからといって踏みつけにするようにやつは,また朝鮮を滅ぼすようなことをするにちがいないんだ〉」

釜山の街の屋台店で,私が日本語を使った。主人は半生を満州で暮らした六十がらみの老人,おかみさんは片言も韓国語を知らぬ日本婦人である。避難民でゴッタ返している動乱さ中のある日,親分とか,兄貴とかいわれる種類の,威勢のいい男が一人,この屋台店で私の日本語を聞き咎めて食ってかかった。

「お気に障ったかね」

 私が穏やかにそういうと,その男は眼を怒らしながら昂然と言い放った。

「あっしゃあ日本に怨みがあるんでね」

「バカヤロウ!」と私が大喝した。

「どんな怨みか言ってみろ。お前の顔に書いてあるぞ,日本が旭日昇天の頃,尻っぽがチギレるほど振りましたと。どうだ。おれの占いは当たるだろ」

 呆気にとられて「愛国者」は返事がない。シンから腹が立つと楽な口が利ける。私はつづけてエンゼツをぶった。

「怨みを知るほどの人間なら,敵が大怪我をしてブッ倒れたとき,土足で踏んづけるような真似はせんもんだ。相手の弱り目につけ込むような,そんな卑劣なヤツが,もともと怨みなど知るわけがないじゃないか。どうだ,〈敗戦日本〉を見下しながら仇呼ばわりをするのはいい気持ちだろ。なにしろ相手がピンピンしているときは尻っぽを振るので忙しかったからね」

 何か犬のような呻き声を一つ残して,その勇ましいアニさんは屋台店から姿を消した。彼にも一片の廉恥はあったのである。(略)

 間違っても私は日本びいきのせいで啖呵を切ったわけではない。そうした手軽な処方で愛国者がつくられてゆく自分の国の出鱈目さに腹が立ったのである。もとより日本を憎むに値する人の,正当な理由による憎しみを私はとやかくいうのではない。しかしながら真に怒りを知り,怨みを知る者は,敗戦日本を相手に旧債を取り立てることに汲々としないであろう。韓国にも韓国の良識はあってよいのである。

「やがて外国に亡命していた独立志士達が,老齢の身を以て故国に帰り政権を掌握するに及んで,この老人達と国民の間の激しい断絶が,国の政治を限りなく悪化させるに及んで,バウトクは新しい戦いを開始せざるを得なかった。

 このときの韓国民は,この老人達が国から亡命した三十年前の民衆とは質が変わっているのに,老人達にはこれを評価するだけの能力がなかった。日本体制のさむらいとしての日本人は,理のみに走って無性に冷酷であり且つ陰凶であったが,私人としての日本人は情にも流されることのある,勤勉で節約を信じ,団結を尊ぶ良き手本であった。これを,三六年間の日本統治を通じて,日本体制からではなく,日本人から学び取った韓国民の価値観は,旧韓末の黒い霧におおわれた世の中で,遊泳と策略のみに価値を認めていた時代と比べると,はるかに民族の充実に希望のもてるものに昇華していた。このすばらしい変化を見抜く能力を欠いた老人達の政治策略は,国民の価値観を後退低下させる危険性を含むものであった。

 例えば李承晩博士は大統領就任演説の中で,財務部長官が国務総理よりも重要な地位であると明言して,国民の失笑を買ったのであるが,笑ってのみ済ませることではなかった。金を握っているものが最も大事であるという半世紀前の政治感覚で統治されるであろう国民は,その断絶に抵抗して初めのうちは戦うであろうが,疲れてくると,それに巻かれる可能性は十分にある。

 バウトクは,団結・勤勉・節約という日本統治三六年間に培養された国民の価値観を守るために,戦いを展開せざるを得なかった。人生とは皮肉に充ちたものである。彼は日本体制の吏僚であった間じゅう,その体制の退却を願い,日本的なものを憎しみ通した。それが,日本が退却した今日になってからは,日本人から学んだ日本的な価値観を守り立てるために戦わなければならないのである」

お互いがこの程度のことくらいは共通認識として持っていれば、もう少し普通に接することが出来そうなものなのですが。
それにしてもこちらのブログ主様、大変興味深いお話しをたくさん書いてくださり、ありがとうございます!

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