タイトルの言葉はソクラテスの有名な言葉です。
ソクラテスの生涯を導いて、それを決定づけたものは
「だれもソクラテスより知恵あるものはいない」
というアポロンの神託であった。この神託は、はじめはソクラテスにとって「謎」であった。
彼は「自分が知恵ある者だなどということには全く身に覚えがない」という〈無知の自覚〉と「神が嘘を言うはずはない」という〈神の信仰〉との間にはさまれて、アポリア(行き詰まり)に陥ったからである。
そしてその後,神の神託が誤りであることを示して神を反駁すべく,世間で知恵ある者だと思われている三者-政治家,詩人,手職人-のもとを訪れた。
そこで彼が発見したことは,その三者はそれぞれ
「自分が知恵ある者だと思っているが、実はそうではない」
ということと、彼自身は、例えば善や美などということを
「実際に知らないので、彼らのように知っているとも思っていない」
ということであり、この無知の自覚の点で自分の方が彼らより「ほんの少しばかり」知恵ある者であるということであった。こうして神託の謎は解け、それが反駁されない真理であることを彼は承認した。
(プラトン著 ソクラテスの弁明)
ニュースであったり、ネット社会であったり、最近の日本では物事の単純化と絶対性が妙に目に付きます。
例えば妊婦たらい回しの話にしても、食の安全問題にしても、政治家にしても、耐震偽装事件にしても。そして多くの人が「もっとしっかりやってもらわないと」「何を信じればいいかわからない」「素人にもわかるように話してくれ」「仕事のレベルが低すぎますね」とコメントを出します。
でも本当にそうなのかどうなのか、その人と一緒に仕事をしたこともなければ話したこともないところで、またその仕事がどんなものかわからないところで、その人そのものをどうやって評価すればいいのでしょうか?
また我が愛する慶應義塾高校野球部についても、躍進すると「どうせ推薦入試をしたら、慶應に集まるに決まっているんだ」「だから勝つに決まっているんだ」と言う人もいます。別に評点上の基準だけではなく、入学後の勉学の大変さはどの位わかっているのでしょうか?グラウンドに照明施設すら満足にないことをどれくらいご存知でしょうか?
また野球部を愛する人たちからは「だからあいつらはわかっていないんだ。」「妬んでいるだけだ。」と切り捨てたりします。耳に痛い言葉の中に何か本質的なことが隠されていないのでしょうか?
偉そうに上記のことをつらつらとブログに書いている管理人が、果たしてどれほどのことをわかっているというのでしょうか?
無知の知と似たような言葉を釈尊も「発句経」で
「たとえ愚かな者であっても、自分は愚かであると知っている者は賢者である。愚か者であるのに自分は賢いと思い込み、そのように振る舞う者がいたら、それこそ本当の愚か者といわなくてはならない」
仰っています。
無知だからこそ、謙虚に外の世界を見て、刺激を受け、他の人の意見を虚心坦懐に聞き入れ、日々心を新たにする。そうなればいいのですが、自分の日頃の生活の中ではむしろ逆の方向に向いてすらいるように思えます。
どうすれば素直に「無知の知」の境地に達することが出来るのでしょうか?
既に達しているとは思えない?
素直なことが入り口な気がします。
送信してから補足です。
既に達してる、と自身では思えていないのですか?
岡目八目では充分謙虚に見えていると感じています、という主旨です。念のため…
「ローマの休日」で有名なオードリー・へップバーンは、
戦時中反ナチスのレジスタンス運動に参加。
彼女の伯父、従兄弟は逮捕されて強制収容所で死にました。
その彼女が最も心を痛めたのは、戦後繰り広げられた
ナチ協力者とされた市民への公開リンチでした。
少なくも福沢と小泉の慶応義塾の精神は、
「主張すべくは主張するが他者に寛容であれ」ということです。
独立自尊とは、まさにそのことです。
独立自尊さんのコメント、さすがです!
げんきさん
コメントありがとうございます。
いや、とてもとても・・・。自分を無とか虚とかに出来ないんですよ。
例えば良いことを人知れずして、それを黙っていて、そのままに出来る人もいるけど、自分はそれは出来ないし・・・。
まあ「自分は謙虚です!」と言っている段階で既にお前は謙虚じゃないだろ!って感じなんだろうけど・・・。
それよりげんきさんの方が、すごく素直に物事に反応していて、自分何かよりよっぽど心がきれいにみえますよ(*^。^*)
では、これからもよろしくお願いします。
文武両道さん
コメントありがとうございます。
ナチスの蛮行はよくよく知られていますが、解放後のナチス協力者に対する公開リンチ、ベルリン陥落後のソ連兵の暴行などもすさまじかったようですね。
我々人間は大勢になったりネット上での投稿したり、つまり匿名性を手に入れると、恐ろしく残忍なことをしたり、通常ならやらないことをしたりすることがありますね。
人間だってもともとが野生の動物ですし、そういった衝動をどこかに抱えているものなのでしょう。
それを抑えるのが他人の目だけだと、匿名性を手に入れた途端、その衝動が解放されてしまいますよね。
そうではなく、自分としては今取っている行動は、自分として納得がいくか、恥ずかしくないか、そういった自らを律する心が人間としては必要なのでしょう。
そういったことが必要だということは、誰でもわかっているとは思います。ただ、それがふっとした時に外れてしまうのでしょう。
そういった場面に遭遇したとき、なんとか自分のみならず他の人たちにもそれを思い出させることの出来る、強い心の持ち主になりたいですね。
「義を見てせざるは勇無きなり」
そうありたいものです。なかなか難しいですが。
その時にひとりよがりにならないためにも「無知の知」を言葉だけではなく、自分の信念として保てるようになりたいと思っています。
最後の最後、
野球部ブログに投稿されましたね。
とても温かい文章です。
部員にプレッシャーにならならないように、
とのご配慮に感心したり、
それでも独立自尊さんから声をかけてあげてほしい、
と思ったり・・・・
筑紫さんの多事争論は、言うまでもなく
「文明論之概略」からのものでした。
今後ともあなたとの多事争論を期待しています。
相手を論難するのではなく、相手から問題点をできるだけ
多く引き出すことが議論の極意、
という福沢精神を大切にすれば、掲示板の2チャンネル化は
避けられるはずです。
それにしても団長さんのご苦労、手腕、頭が下がります。
文武両道さん
コメントありがとうございます。
残念ながら野球部ブログに同名の投稿はありましたが、実はあれは自分ではないんです・・・[E:coldsweats01]
でも(いや、だからと継ぐべきですね)、とても温かい、監督・コーチ・選手に目が向けられた、いい文章ですね[E:happy01]
「相手を論難するのではなく、相手から問題点をできるだけ多く引き出すことが議論の極意」、とてもいい言葉ですね。
自分も肝に銘じておくようにします。
それにしても団長さんは、すごいですね!
あの微妙な空気を巧みにまとめていく手腕は、目を見張ります。
これからもよろしくお願いします。
ヘーゲルが「詭弁」について語っています。
詭弁の本質は、個人のその時々の利益および特殊の状態に都合のよいように、
一面的で抽象的な規定をそれだけ切り離して主張することにある。
一口に言えば、詭弁においては「意志のあるところに理由がある」のであって、真実は本来どうでもいいのです。
ある事柄について様々な観点を取り出し、その他の観点を圧倒することである。
何が人々の役に立つかではなく、論争に勝つこと、相手をやっつけることだけを目的にした主張を詭弁と呼ぶ。そこには、真実を求めるための真の謙遜はなくなってしまい、相手の言っていることもよく理解せず、ひたすら相手を攻撃する材料を探す態度のみが見られる。
文武両道さん
コメントありがとうございます。
ご説の通りの定義でいけば、今世の中にはまさに「詭弁」が溢れていますね。
それとは対極にいるのが、福澤精神なのかもしれません。
今月号の文藝春秋を読んでいたら、まさにそんなことを思いました。
新しい記事にその中身をご紹介させて頂いているので、お時間あればどうぞご覧になってみてください。