父の日に何を贈る? 予算はどのくらい?

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なんだかとてもありがたいことに、掲示板でご紹介頂いた方がいらして、拙ブログにもたくさんの方々がお越し頂いているようです。まさに感謝感謝です[E:happy01]
さて、そんなときにコネタマでいいのか?という気がしないでも無いですが、まあそこは余り気にせず、コネタマに走ろうと思います。
今回のお題は「父の日に何を贈る? 予算はどのくらい?」とのこと。
実は勤務先が勤務先なもので、この歳で既に結婚して実家を出ているにもかかわらず、毎日のように自分の親父の顔を見ることが出来るという、大変な ありがたい環境のもとにいます。
また、奥さんの実家のお義父さんも常日頃から大変よくしていただいており、これまたありがたいことになっています。
なので、今年はまだ決めてはいませんが、いつも毎年何かはプレゼントするようにしています。去年は確かポロシャツとか衣服とかだったような気がします。やはり多少なりとも感謝の気持ちは形にしないと!ですよね。予算はそれこそこういった場では書きにくいので、その気持ちはpricelessとだけ書いておきましょう。
みなさんはどうされているのでしょうか?

「父の日に何を贈る? 予算はどのくらい?」に16件のコメントがあります

  1. こんばんは!
    うちの偏屈なオヤジは何を贈っても無駄遣いするな、と怒ります。6月生まれでもあるのに・・・
    なので、今年はPricelessなキモチだけ贈ることにしました(笑)

  2. 送信しちゃいました[E:sweat01]
    で、続きですが何より顔を見せること、話を聞いてあげることが一番喜ばれますよ[E:flair]
    人の親になると自分の親の気持ちが・・・本当に解る気がするようになります

  3. げんきさん
    コメントありがとうございます。
    なんだかしんみりとするお話しですね。残念ながら自分はまだ親にはなっていないので、本当のところは分かっていないのでしょうが、結局は親と子の関係そのものが一番大きな宝物なんだと思います。だからこそ顔を出し、話をするのが一番なんでしょうね。これからは更に増えたご家族の顔もみたいでしょうから、今まで以上に顔を見せるといいのでしょうね[E:happy01]

  4. 1月1日生まれでお誕生プレゼントもらったことなし。
    妻は誕生日、母の日プレゼント、
    娘や息子からもらっているのに。
    ところが息子が結婚すると、
    お嫁さんから父の日のプレゼント。
    お嫁さんからのメール、電話が
    何より嬉しい。
    衛星放送で原節子のお嫁さんと
    山村聡のお父さんの心のふれあいが描かれて
    いましたが、よくわかります。
    嫁と姑はお互い、気をつかいあっているのに、
    ぎこちない。
    嫁と舅は、妻や息子がやきもちをやくほど
    仲が良い・・・
    不思議なものです。

  5. 因みに義理の弟の娘が結婚したら、
    母親とお婿さんが恋人同志みたい・・・
    やはり娘のほうが、
    「お母さん、私の夫なのよ」
    ですって・・・

  6. 文武両道さん
    その映画は見たことはありませんが、小津監督の映画なんでしょうね。
    自分のところがどうかは言及は避けますが[E:coldsweats01]、やはり同性同士はどうしても相手を自分と比較して見てしまうところがあるのかもしれませんね。それに比べて異性の方が、素直に感謝の気持ちが持ちやすいのかもしれません。
    そう言えば福澤諭吉先生が書かれた「中津留別の書」ってご存じですか?たまたま見つけたのですが、とても深い文章だと思います。これを35歳の時に書かれたと知り、驚くばかりです。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/46890_26144.html

  7. そうです。小津作品です。
    この映画とは別の映画ですが
    「東京物語」では、実の息子よりお嫁さんとの
    心が通い合う舅を笠智衆が見事に演じていました。
    かつて全世界の映画人から
    歴史上
    オーソン・ウエルズの「市民ケーン」と小津安二朗の
    「東京物語」がベストワンの評価を受けた理由が
    わかります。
    「このごろ世間に、皇学・漢学・洋学などいい、おのおの自家(じか)の学流を立(たて)て、たがいに相誹謗(ひぼう)するよし。もってのほかの事なり」
    某掲示板を荒したこの傾向はなくなってきましたね。
    多事争論と誹謗の違い、ご紹介の文章に見えました。

  8. 「中津留別の書」。なつかしいです。
    「学問のすすめ」の0編という位置づけの文章で、そのエッセンスが
    既に見て取れます。
    大学1年の時、塾高の佐志先生の講義でとりあげられました。
    科目名は何だったか忘れましたが、かつて塾史編纂所で百年史編纂に
    携わられた佐志さんの講義は、面白かったです。
    (という割には結構居眠りもした覚えがありますが…)

  9. 佐志伝…
    ○十年ぶりに想い出しました。
    確かに佐志さんと山内さんの世界史は印象に残っています。印象だけで授業の内容の記憶が残ってない小生は凡人ですが[E:sweat01]

  10. 突然思い出しましたが、佐志さんの講義は大学2年の時でした。
    何しろ、学年末のレポートでヒイヒイ言っていて、成人式に
    行かれなかったんですから…
    (何て情けない思い出!)

  11. かつて三田で聴い丸山真男の講演を思い出します。
    福沢はあらゆる立論をば、一定の特殊的状況における遠近法的認識として意識したればこそ、いかなるテーゼにも絶対的無条件的妥当性を拒み、読者に対しても、自己のパースペクティヴの背後に、なお他のパースペクティヴを可能ならしめる様な無限の奥行を持った客観的存在の世界が横わっていることをつねに暗示しようとした。
     
    福沢の文章を読んでいると「惑溺」という表現がよく出てくる。丸山はこう語る。
    「惑溺」というのは、人間の活動のあらゆる領域で生じます。政治・学問・教育・商売、なんでも惑溺に発展する。彼がよく言うのは、「一心一向にこり固まる」という言葉で言っています。政治とか学問とか、教育であれ、商売であれ、なんでもかんでも、それ自身が自己目的化する。そこに全部の精神が凝集してほかが見えなくなってしまうということ、簡単に言うとそれが惑溺です。うまく定義できませんけれども、また、定義すべきものでもありませんけれども、自分の精神の内部に、ある種のブランクなところ──その留保を残さないで、全精神をあげてパーッと一定の方向に行ってしまう、ということです。
    「惑溺」は何も儒学など伝統墨守の石頭に限らない。福沢は急進的な民権論に対して斜に構えた態度を取ったが、急進論にもこうした「惑溺」を見出したからだと丸山は指摘している。立場の如何に拘らず、こうした思考停止状態に陥ってしまう人がいつでもどこでもいる。
    むかし、『福翁自伝』を読んだとき、たとえば適塾で、赤穂浪士は義か不義か、なんてたわいない議論をする場面、福沢は「お前が義だと言うならおれは不義だと言う、お前が不義だと言うならおれは義にしてみせる、さあ、かかってきやがれ!」なんてことをやっているのが印象に残った。別にディベートの訓練なんてつまらん次元のことではない。ある一つの立論があるとして、それとは異なる立場にもそれなりに筋の通った理由があり得る、そうした配慮があってはじめて対話というものが成立する。このあたりのことを丸山は役割意識という表現で語っている。
    …人生は、そこで大勢の人が芝居をしているかぎり、大事なことは、自分だけでなくて、みんながある役割を演じている以上、自分だけでなく、他者の役割を理解するという問題が起こってくるということです。理解するというのは、賛成するとか反対するとかいうこととは、ぜんぜん別のことです。他者の役割を理解しなければ、世の中そのものが成り立たない。
     
    このブログの魅力は、
    塾野球部から経済、政治まで「惑溺」しない
    管理人さんの眼によるところが大きい。

  12. 当時、東大紛争で丸山真男が研究室を封鎖され極左から「権力の手先」と批判されたとき、
    彼は戦時中、軍部によって言論を圧殺された悪夢を思い出していたことでしょう。
    丸山の日本政治史研究の核に福沢がいたこと、そのキーワードが「惑溺」でした。
    この当時、丸山が発言したのは慶應義塾でのこの講演ただ一度だったのです。

  13. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。そうですか!やはり小津作品だったのですね。今とは全く違うアプローチ、すなわち見かけの派手さで観衆を惹き付けるのではなく、人の心のひだをそっとなでるような動きに、じんわりとした温かみを感じる映画だったそうですね。まだ小津作品は見たことがないのですが、機会があれば見てみるようにします。
    「中津留別の書」、親と子の関係に言及しているところからご紹介したのですが、それ以外にもいろいろと深いお話がありますね。それについては後ほどの返信にて。

  14. あごらさん
    コメントありがとうございます。
    仰るようにこの「中津留別の書」は「学問のすすめ」の第0章としての位置づけだそうですね。
    そうそう、佐志先生の!と言いたいところですが、不真面目な塾生だったため全く知らず、今になって思えば大変もったいないことをしているなあと今更ながら思います。ちゃんと覚えていらっしゃるのですから、その講義はやはりあごらさんにとって血となり肉となっているのでしょうね。
    ちなみに自分も学生時代の講義はよく・・・[E:sleepy]

  15. げんきさん
    コメントありがとうございます。
    さて、山内先生はきっと塾高の山内先生のことですよね?いわゆる朝造先生は、2年生の時の担任の先生でした[E:happy02]
    何か問題があると、よく口癖のように「よし、じゃあこれから先生と相撲を取ろう」といったような事を仰っていたような記憶があります。個性的な先生でしたね。でも世界史の授業もとても面白かったなあ~。歴史ってつまるところ人の営みですが、その情景を臨場感たっぷりに描いてくれていたんですよね。

  16. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    右派からも左派からも攻撃される。それはその方が自分の考えをしっかりと主張している証だと思います。何かを教条的に捉えていれば、そういったことに繋がらないですから。丸山真男さんは強い信念をお持ちの方だったんですね。
    「惑溺」、確かに陥りやすいと思います。友達に対して、恋人に対して、家族に対して、信奉する理論に対して、属する組織に対して、応援する対象に対して、頭で考えることをやめてただただ受け入れるだけになってしまう。その方が楽ですし、嫌われる・排除されることがないでしょうから。
    俗に言うステレオタイプな見方というのも同じ。みんながそう言っているので、同じ事を言っていれば何も言われることはないでしょう。
    でも、それでいいのか?ということです。で、自分は一体このことをどう考える?と自問自答しなければ、自分の存在意義が薄れてしまうのです。「我思う、故に我あり」です。福澤諭吉先生が「独立自尊の人」を盛んに言うのも、そういった人たちがいないと近代国家は成り立たないと喝破されていたのでしょう。「中津留別の書」、現代語訳してそのまま新聞に投書したいくらい、今の時代に通用しますね。
    なんて偉そうなことを言いながら、自分自身多分いろいろな面で「惑溺」していることもあると思うので、そんなときは遠慮無くご指摘頂ければ幸いです。

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