昨日は茨城に行っていたため、録画していた番組です。楽しみにしていましたが、やはり期待を裏切らない、大変興味深い番組でした。
番組のHPにはこう記されています。
太平洋戦争の開戦の鍵を握った大日本帝国海軍・軍令部。全ての基本作戦の立案・指導にあたり、絶大な権力を持った『軍令部』の実態は、資料が殆どなくこれまで闇に包まれていた。
「海軍反省会」。戦後35年が経過した昭和55年から11年間、海軍の中枢・『軍令部』のメンバーが中心となって秘密に集まっていた会合である。70~80代になっていた彼らは、生存中は絶対非公開を条件に、開戦に至る経緯、その裏で行った政界・皇族・陸軍などへの働きかけなどを400時間にわたって仲間内で語っていた。戦争を避けるべきだと考えながら、組織に生きる人間として「戦争回避」とは言いだせなくなっていく空気までも生々しく伝えている。
太平洋戦争で亡くなった日本人はおよそ300万人。アジアでは更に多くの人命が失われた。
当時の日本のエリートたちはなぜ開戦を決意したのか。彼らが残した教訓とは何か。シリーズ第一回は太平洋戦争に突入していく経緯を当事者の証言から浮かび上がらせる。
この会議はもともとは「同じ過ちを後世の人が繰り返さないために」ということで始めているのですが、やはり人物像というか、その人のなりというのが会話で出てきます。
例えば軍令部作戦1課というエリート中のエリートだった人は、ミッドウェー海戦の作戦は投入する艦隊の量も疲労回復等準備の面からも無理をし過ぎていると思い一生懸命反対したが、永野軍令部総長が山本連合艦隊司令長官の言う通りにやらせてあげようと言って作戦が発動されることになり、こんな作戦をするなんて!と思って自分は泣いてしまったと何度も繰り返します。
また、昭和15年12月12日、海相の認可を得て、海軍中央に『海軍国防政策委員会』が発足しました。・・その中心になったのは第一委員会で、これが国防政策や戦争指導の方針を分担業務としました。委員は海軍省から高田軍務局一課長、石川同二課長、軍令部から富岡一課長、大野戦争指導部員の四大佐で、幹事役として藤井、柴、小野田の三中佐が配属されました。高田利種大佐がのちに『この委員会が発足した後の海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いたとみてよい。海軍省内でも、重要な書類が回ってくると、上司から、この書類は第一委員会をパスしたものかどうかを聞かれ、パスしたものはよろしいと捺印するといったぐあいに、相当重要視されていた』と語っていました。
その当人も反省会に一度だけ出席してこう言いました。
「私、高田利種が第一委員会にいたということ。それについて逃げも隠れもしません。私は確かに所属していました。」「アメリカとの戦争に勝てるかどうか、確信を持っていたかどうか、覚えていません。」
・・・ん?
当時の、それも帝国海軍のトップ級の頭脳達がこういうことを言うのです。
出席者の一人は、この遠因を軍令部が伏見宮殿下を当時軍令部長に招き入れるという策を取ったことから始まると喝破しています。
陸軍が昭和6年に閑院宮殿下を陸軍参謀総長に頂いたことに対抗して、昭和7年に海軍の軍令部長に伏見宮が就任するわけです。彼は自分の役割をよくわかっていました。今まで陸軍に比べて相対的に地位の低かった海軍の権威拡張を皇族の威光をもって図ろうというものです。海軍はそれまでのロンドン・ワシントン条約により軍艦の制限を受けており、鬱憤が溜まっていました。この時に統帥権干犯を政友会の鳩山一郎が騒ぎ立てたりするのですが、その鬱憤を皇族部長のご威光で打ち破り、軍縮条約の延長を取りやめてしまい、建艦競争に突入し、英米との対立を深めていく結果になってしまいます。
多分伏見宮も海軍、それも軍令部の権威拡張のために動いてあげたと思っていたのでしょう。そして具体的な行動は下の者に任せた。そしてそれを振り付けたのが、強硬派の人たちでした。
前述の高田大佐は違った場所で、こういった一連の強硬路線を、「海軍の予算獲得と権威拡張のため」とはっきりと言っています。
そういった人たちが、作戦が失敗すると思っていたと今更ながら言い訳し、さらに泣いたんだと強調することで、自分の責任ではないんだと訴える姿勢。あるいは、「逃げも隠れもしない」と言いながら「覚えていない」と逃げてしまう姿勢を見せているのは、ある意味納得出来ます。そういった人たちが作った作戦だからこそ、ああいった結末を迎えたのかなあと。
勿論番組の作り方もあるのでしょうが、今回を見た限りでは、対米戦に勝つか負けるかという研究よりは、海軍としてどう行動すべきかという観点に終始し、自分たちに都合の良いようにムードを作り出し、そのムードが手に負えなくなると知らんぷりで自分はわかっていたんだが・・・といった風に首を振るだけといった感じでした。
これは今の省庁にも言えるような気がしますし、身近な場所でもそういったものをよく見るような気がします。
いいとか悪いとかでは無く、殆どの人間が、例え頭が素晴らしくいい人であってもそういった状況に陥りやすいと思うのです。
であれば、それを理解した上で、その組織をリードしている人間が、いかにそういった面を無くし、組織として合理的な判断を下せるようになるかが一番大事なのではないでしょうか。それを考えることが出来てこそ、この番組を見た意味があるのかもしれません。
次の回(もう放送されていて録画もしていますが、さすがにもう寝ます・・・)も本当に楽しみです。
アメリカは冷徹に戦力分析、
日本のメンタリティーまで計算にいれていた。
会社でも野球でも
未だに日本では「精神」が闊歩する。
敗因分析せず、
責任を声高に追求するか、
逆に「かわいそう」とかばってしまう。
TBSの「最後の赤紙配達人」
参謀本部の生き証人
「戦争になったら行きつくところまで
行くしかない。途中でやめられない」
負け戦決定の昭和20年、
赤紙大量発行!
他方、トルーマンの作戦参謀(生き証人)
「日本はそうすると思っていた」
野球部ブログで忠本君、
「野球は気持ちが強い方が勝つのではない。
やはり技術だ」
中林君
「1点差負けは惜しいのではなく原因がある」
日本人は、「気持ち」に逃げていたのでは?
今も昔も・・・・
会社の中と同じですねー
まぁこんな連中でも海軍にとっては「合理的な」行動だったんでしょう。
如何にも縦割り、自分の自尊心優先だったんだな、と記事を見た感想です。
多少の良心の呵責を独りで消化できなくて、抱え込み封じきれなくて、もっともらしいテーマで同志を集めて自分達は悪くないと慰め合い?
そうでもしないと祟られるのか夢見が悪いのか気が狂ってしまうのか。そうなってもいいくらい人命を預かる責任は大きいはず。
歴史の上に僕らは生きているので戦争の過ちは否定できません。
しかし為政者や組織の幹部はやはり全体最適の視点を持って、そしてその努力して欲しいですよね。綺麗事だけではだめですが、現場無視はいただけないのです。
日頃仲の悪かった陸海軍が開戦に一致したとき、
「負の予測」の甘さがあった。
高速道路の無料化で激増するCO2
地デジで激増する受信機の不法投棄、
ともに環境への甚大な悪影響が予想されるが、
自民、民主のマニフェストには触れられていない。
国民に人気だから、経済成長に有利だから、
2大政党が一致する政策の「負の予測」の甘さ!
軍令部 永野
帝国海軍軍令部―州子の戦争資料から価格:¥ 1,260(税込) NHKスペシャル…
文武両道さん
コメントありがとうございます。
以前「陸軍ばかりが悪く言われていますが、見方を変えれば海軍が・・・」と何かの返信でさせていただいたような覚えがあるのですが、まさにそれを証明するかのような番組でした。第三回も見たので、記事で詳しく書こうと思いますが、「精神が闊歩する」時は要は指導層に妙案が浮かんでいないときなんだと思います。それは「天皇陛下」という言葉を政治的思惑で使う場合にも同じことが言えると思うのです。
「負の予測」、とても大事ですよね。民主党が行っていない最大の負の予測は「政権交代一本で進んでしまっているので、ここの政策の整合性の無さを解消せずにいること」のような気がします。自民党が行っていない最大の負の予測は「なりふり構わず政権党が相手の党を個別攻撃したという悪しき前例を残すこと」だと思えます。
げんきさん
コメントありがとうございます。
直裁的に言うと、まさにその通りだと思います。
海軍にも立派な提督はたくさんいた訳で、そう言った方のお話しはいろいろと本になっているので、海軍には洗練されたイメージがありました。実際に塾高は連合艦隊司令部が置かれた場所ですし、寺田さんの防空壕めぐりも行われていたので、ちょっとした親近感もありましたし。
でもそういったイメージは主に前線に立っていた人たちで、中央部で動いていた人たちは・・・。
結局、人が数字に置き換えられ、誰々が死んだと感じることから、何人死んだと数字で判断するようになってしまったからこそ、ああいったことになっていったのでしょう。番組でもその後、現場の指揮官が軍令部参謀に向かって痛烈に批判する場面が何度かありました。
全体最適を達成するためにも広い視野と現場感覚が必要なんだと思います。