「練習は不可能を可能にす」を読んで

今日は久しぶりに家に一日中籠もることが出来、読みたかった本も読むことが出来ました。その本のタイトルは「練習は不可能を可能にす」。

このお方を表現する言葉が多すぎて困るのですが、名塾長であり名教育家であり名文家であり今上天皇陛下のご教育掛であり、そしてスポーツをこよなく愛された小泉信三先生のスポーツをめぐる随想集です。
とにかく先生の戦前に書いた文章も、戦後に書いた文章も全くぶれることなく同じ思想の元書かれているところに深く感嘆します。
印象に残った文を順不同で書きますと、
スポオツ雑談と題された文章にて、

・運動技術の発達に関連して面白く思うのは、熟練者の保守主義
・熟達者が兎角新技術の採用を快しとしない
・現在の技術に熟達しながら、しかも常に新しいものに対する感受性と寛容を失わぬ人々こそ、真に尊敬を受くべき

また、「テニスと私」「野球と私」と題された章にて

・(嫌な観客を評して)この連中は自らテニス通をもって任じているから、少しも選手を尊敬しない。選手を理解しようとしないで先ず批評をする。それもコオトの上をろくに見ないで批評ばかりしている。しかも周囲の人のみならず選手その人にも聞こえよがしに何か言う。特には無遠慮に哄笑したりする。苟も自分で仕合に出た経験のある者なら、忘れてもこんな事は出来ない筈であるがそれを敢えてするのは、反省力が人並み外れて鈍いか、誇示慾が人並み以上に強いかのためであろう。(中略)或る仕合の見物中、五月蠅いテニス通の一人があまり喋舌り続けるので「プレヤアの邪魔になるから静かにし給え」と云ったところが「誠に済まなかった」とあやまるかと思いの外、その人は不平そうにふくれて黙ってしまった。誠に度し難しである。(これは昭和7年に書かれたものです!)
・(コラムにて)野球の試合で、味方の形勢悪しと見れば中途で立ち上がって帰る人々を苦々しく思われ、「九回裏を待たずにあきらめて席を立つのは、観客としても、応援者としても面白くない態度だね」とよくおっしゃった。最後の最後まで選手の健闘に期待を寄せる先生の態度こそ、選手の心情を理解するものと言うべきだろう。

また、自慢高慢と銘打たれた文章にて、六大学野球の昭和40年春のシーズンに、当時77歳の小泉信三先生が始球式を投げてしかもストライクを投じられたことを書かれています。その始まりが以下の文です。

・「自慢高慢バカのうち」と、子供のときに戒められた。たしかにその通りで、私もバカと思われたくないのは山々であるが、ところが、したい自慢はやはりしたい。先日、私は六大学野球の始球式に出て、神宮球場のマウンドからストライクを投げた、といって新聞にほめられた。どうもその話を書いて吹聴したいのである。七十七歳という自分の年を省み-また教育者として見られている私として-どんなものか、と色々考えて見たが、やはり書いて『新文明』に投稿したくなった。

そして最後はこう締めくくられています。

・追記すると、日ならずして六大学リーグから記念品として卓上の置き物を贈られた。(中略)私は欣んでそれを受け、客間の一隅の卓上に置いた。それは何か、と問うものがあったら手柄話をしようと思っているが、中々人はきいて呉れない。世に心利きたる人というのは少ないものである。

ちなみにこの年の野球部の主将が現塾野球部監督の江藤省三さんです。う~ん、味わい深い。
今度は前田祐吉さんが「勝ちたがり」と題して寄せられているコラムにての文章です。

・慶應義塾体育会の創立七十周年に際し、小泉先生は「三つの宝」と題して、スポーツの効用を説かれた。第一は、練習によって不可能が可能になるのを、体験すること、第二はフェアプレーの精神の体得、第三は終生変わらぬ良き友人を得ること、を挙げて、多大の感銘を与えられた。又先生が好んで口にされた言葉に「Be a hard fighter,and a good loser!」というのがあった。私はこれを「猛烈に戦った者にしてはじめて、良き敗者たり得る。」と自己流に解釈して自らを戒め、選手にも話し聞かせるのを常とした。

他にも興味深い文としてはタイトルだけですが

・スポーツが与える三つの宝(前田さんの文章でも紹介されています)

・人生と練習

・民主的弛緩

・猛練習とシゴキ

・スタンド・プレエ

・潔き態度

・「チームワーク」について

・一年-伊藤正徳のことなど

・病気見舞

・「信なきものは去る」

・清潔競争(最後の文章で「勝手に紙屑を捨てられないことは、人間の大切な自由を、少しも損うものではない。」とは簡潔にして平易、かつ明快な文章だと思います)

・青春は歌に連なる

・コラム早慶戦(お嬢様の小泉タエさんが書かれたもの。最後の一文「父に見せたい優勝に加えて、また一つ、聞かせたい話がふえてしまった。」にジーンときました。)

・みんな勇気を

・夫子ノ道ハ忠恕ノミ

そして善を行うに勇なれという章に書かれている

・塾長訓示(これが昭和15年のものというところにも感銘を受けます)
かねて「塾の徽章」の題下に訓示せるところの要を摘り、塾生諸君の居常おこたる(原文は旧字)べからざる心得数条を定む。心して守り、苟も塾の徽章に愧づる(はづる)ことなきを期せらるべし。   塾長
一、心志を剛強にし容儀を端正にせよ
一、師友に対して礼あれ
一、教室の神聖と校庭の清浄を護れ
一、途(みち)に老幼婦女にゆずれ(原文は旧字)

そして最後は「スポーツと教育」より

最後の勝利は、最後までくじけない闘者に帰する、とは理論としては誰れも承知しているが、さて人生の実践上においては、人はしばしば早く絶望して、未敗に敗れ去るのである。その誤りを戒めるものは、ただスポーツの体験のみだ、といったら、それは勿論いいすぎだが、スポーツの体験が痛切にそれを教えることは間違いない事実である。

本当にまとまりのない文章になってしまいましたが、社会人として過ごしている自分にとっても、またスポーツに打ち込む方々にとっても示唆に富んだ素晴らしい本だと思います。ご興味があれば是非ご一読されてみてはいかがでしょうか?

「「練習は不可能を可能にす」を読んで」に7件のコメントがあります

  1. 言志晩録抄
    13 武技を参観する法
     余は好みて武技を演ずるを観る。之を観るに目を以ててせずして心を以てす。必ず先ず呼吸を収めて、以て渠れの呼吸を邀え、勝敗を問わずして、其の順逆を視るに、甚だ適なり。此れも亦是れ学なり.
    17 勝って駿らず、負けて掛けず
     戦伐の道、始に勝つ者は、将卒必ず驕る。驕る者は怠る。怠る者は或は終に衄す。始に衄する者は、将卒必ず憤る。憤る者は厲む。厲む者は遂に終に勝つ。故に主将たる者は、必ずしも一時の勝敗を論ぜずして、只だ能く士気を振厲し、義勇を鼓舞し、之をして勝て驕らず、衄して挫けざらしむ。是れを要と為すのみ。
    25  失敗は慣れない者に少なく、慣れた者に多し
    30 己れに恥じざれば人は服せん
     我が言語は、吾が耳自ら聴く可し。我が挙動は、吾が目自ら視る可し。視聴既に心に愧じざらば、則ち人も亦必ず服せん。
    32 順境あり、逆境あり
     人の一生には、順境有り。逆境有り。消長の数、怪む可き者無し。余又自ら検するに、順中の逆有り、逆中の順有り。宜しく其の逆に処して、敢て易心を生ぜず、其の順に居りて、敢て惰心を作さざるべし。惟だ一の敬の字、以て逆順を貫けば可なり
    スポーツと人生を重ねて想うと、
    小泉語録とつながります。

  2. 明治神宮大会、箱根駅伝を制覇した
    早稲田大学は、学生3大スポーツ制覇まで
    あと一つ(ラグビー)です。
    野球とラグビーで日本一を慶應に奪われた年、
    当時の早稲田は「スポーツ日本一」
    を学校を挙げて目標としました。
    (私が非常勤で行っていたころ
    教授から聞きました)
    それがあと一つのところまで・・・
    早稲田の今の勢いで行けば、可能です。

  3. 今日の独白を読んで…
    間違いなく、こちらを読んで!?

  4. 私は忘れましたが、
    江藤さんが卒業したあと、某塾長が、
    「これから慶應は野球なんかどうでもいい、
    学問で東大を負い越す」
    と言ったのだそうです。
    「小泉信三さんが生きていたら、
    そんなことは言えないだろう。
    これで塾のスポーツはダメになる」
    という感想をもったそうです。
    高木大成君が平日は授業に出て、
    土日に打ちまくったとか、
    山本省吾君が明治神宮大会で優勝したあと、
    神宮から授業に駆けつけたとか、
    両立に大変な努力をしていたと聞くにつけ、
    文武両道にどの大学よりも努力している
    選手、監督に敬意を表します。

  5. 発売された野球小僧。いきなり、某高校主将、さらには、某大学主将も。ちなみに、某大学主将は、今朝の新聞紙上では三冠宣言もしてましたね!

  6. 文武両道さん
    コメントありがとうございます。
    さて、佐藤一斎と言えば、たいていの幕末の志士は読んでいたそうですね。それも高尚なお話から、割と実際的なマニュアル本みたいなところもあったそうですね。
    自分もこの前こんな本を読みました。
    最強の人生指南書(祥伝社新書205)
    斎藤さんは以前「学問のすすめ」でもご紹介しましたが、平易にわかりやすく書いてくれますね。
    長嶋茂雄さんが2回目の監督を退任されるとき、「野球は人生そのものだ」といった言葉を言われましたが、確かに人生に重ね合わさる部分が多いように感じます。
    あることを尊ぶとき、他のものを落とさなければならないのであれば、それはきっと本当の意味で尊んでいないのだと思います。どんな道であれ、打ち込んで何かを成し遂げると言うことは容易なことではないはず。だからこそ、周囲に対して謙虚であるべきだし、敬意を払うべきだと思います。勉学かスポーツか?ではなく、ともに敬意を払い、参考になるべきは取り入れる姿勢があるかどうかが、そういった部分にも表れるのかも知れませんね。

  7. 黄色と黒は勇気のしるし♪さん
    コメントありがとうございます。
    さて、マックさんに読んでいただいているとはさすがに思えませんが、あの記事も大変興味深かったですね。入るときに高い関門があることも、入ってからも勉学に勤しむ必要があることも受け入れた上で、でもスポーツに取り組んでいるその時間の時は、出来うる限り最高の環境を与えてあげたい。小泉信三さんが「剛毅」と評した昭和初期の名監督だった腰本寿さんも「野球部は義塾の華じゃないか」と言われたそうですし、塾当局も施設面・指導者面でもう少し配慮してくれると、より一層盛り上がりますね。
    10位に出ていた高校の4番主将は、もしプロ志望と言っているのであればもっと上なんでしょうね。大学の4番主将はインパクトの時の音が違うと表現されていましたね。なんでも朝起きたときから、寝ぼけ眼で筋トレを始めるくらい、ストイックな性格だそうです。ふたりの未来に大いなる幸あれといったところですね。

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