次の文を読んで、あとの問いに答えよ。
W大学のWK戦時の学生席でW大学校歌を斉唱するときに、起立脱帽することを命じ、起立脱帽しない学生を応援部が叱るという措置の合憲性が争われている。何が問題なのか。
第一に、W大学の創始者であるOさんは対華21箇条の要求を出した総理大臣であり、W大学校歌は創始者たるOさんを讃えるシンボルであると考える人々にとっては、W大学校歌に敬意を払えという命令は、自己の思想に反すると感じられる。とくに応援の自由は A などとともに、野球の応援において強く保証されなければならない人権である。第二に、応援という場面で、学校への忠誠を教えることは、本来応援に課せられている使命とは結びつかない。野球の応援で、校旗を掲揚し校歌を斉唱することは、それを通じて大学への敬愛の念を抱かせようとするものであり、応援には似つかわしくない。第三に、起立脱帽の命令は、学生に対して応援の指導的立場に基づいて、応援上の指示として発せられている。そのため、校歌の際の起立脱帽の強制は、学生に対する関係では応援の自由を侵害するといえるとしても、起立脱帽という行為については、重要な応援様式の円滑な遂行のため許されるという考えもありえよう。
試合でW大選手が活躍して校旗が掲揚されることはうれしいものである。それなのに、なぜ校旗校歌が問題になるのか。その根底には、日本が犯した対中関係の過ちを正面から認めることを拒む政治思潮と、それに対する批判論の対立がある。この対立は、ひいては南京大虐殺を否定するという論議ともつながっている。また。校旗・校歌を尊重することは、大学の国際化の進展のなかでWという大学へのアイデンティティを求めることとも結びついているが、愛校心の高揚はかえって他校との摩擦を生むことにもなりがちである。
今回のWK戦時の起立脱帽をめぐる争いの特徴は、学生によるリンゴの投げつけを巡って両校応援団が争った B 事件と比較したとき、学生を無理に起立させ、起立しない学生を叱るという強権的な姿勢が目立っている。やはり、応援には強制はふさわしくないのではないだろうか。
問1 空欄Aに入る語句は何か?
問2 空欄Bに入る語句は何か?
問3 WK戦時において、起立脱帽の厳正な実施を指示し、不起立者不脱帽者に注意をしているものは誰か?
問4 応援団の行為によって応援の自由が侵される場合としてさまざまな形態が考えられるが、どのような例が考えられるか。
なお、この問題はフィクションであり、下記の問題からインスパイアされたものではありません。かもしれないです。
http://nyushi.yomiuri.co.jp/12/sokuho/waseda/ho/seikei/mon1.html
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120221/edc12022102080000-n1.htm
十年ほど前、早稲田祭が中止になった時に、当時の早稲田祭の実行委員長の四年生の方が
「実行委員会は革マル派と縁が深いから中止をすると言われましたが、革マル派の何が悪いんですか。
憲法改悪に反対する、まっとうな政治団体じゃないですか。」と語っている記事を読み、唖然とした
記憶がありました。早稲田の「在野精神」という伝統は尊重すべきでしょうが、その負の側面がこうした
発言や、ご指摘の記事の中にあるのだとすれば、悲しむべきことと考えます。
日本が中国を侵略した悲しむべき歴史があることは、私も率直に認めなければならないと考えます。
一方で現政権の中国共産党が、毛沢東政権時代に、大躍進運動や文化大革命によって、日本軍に
よるものを大きく上回る規模で、人民を死に追いやり、国民に塗炭の苦しみを味あわせたことも、
冷厳な歴史的事実です。
「中国がそういう歴史がある国旗を掲揚し続けることの方が、はるかに問題ではないか。」と尋ねたら、
これらの人々は何と答えるのでしょうか。
コメントが応援指導部を批判するものと誤解されるので躊躇しました。
開会式のとき国旗に起立脱帽し、エール交換のとき起立脱帽するのは礼儀ですから。
ただ、2つの事例だけはあってはならないと思っています。
ジョージ・オーウエルのスターリン主義批判の事例、
スターリンが演説を終えたとき秘密警察が誰が最初に拍手をやめたかチェックする。
その人間はただちに収容所送りとなる。それゆえいくら手が痛くても拍手は鳴りやまない。
日本には戦時中、天皇の写真の前でお辞儀の仕方が悪いと難癖をつけられ
小学生が理不尽にも教師から鉄拳制裁を受けた。
心からの礼儀をしない無礼と強制された礼儀の理不尽さ、
この区別が大切。